検量室を包んだ喜びのボリュームは、いつもの数倍に及んだ
文/石田敏徳
検量室前へ先に引き上げてきた
アパパネの
蛯名正義騎手は、悔しそうに顔を歪めながら②着の枠場へ馬を導き入れようとした。するとそこへ周囲から、
「いやいや、まだ分からない」、
「いいから①着のほうに入っちゃえよ」と声がかかり、思い直したように①着馬が入る枠場へと
アパパネを導いた。
ただ、馬から下りて鞍を外しながら、国枝栄調教師に
「突き抜けるかと思ったんだけど、思った以上に(馬場に)脚を取られちゃって……」と報告する表情には、ハナ差の惜敗を
“覚悟”しているような色が浮かんでいた。
一方、程なくして引き上げてきた
サンテミリオンの
横山典弘騎手はスタッフの誘導に従い、躊躇なく②着の枠場へ馬を導き入れた。とはいえ、馬から下りて無言で検量室の中へ入っていくその横顔は、先刻の蛯名騎手とは好対照なものだった。彼から伝わってきたのは、勝利を確信しているかのような
“余裕”である。
覚悟と余裕。レースの直後に2人の騎手が浮かべていた好一対の表情が物語るとおり、ゴールの瞬間は確かに私も、
サンテミリオンが優勢と感じた。ちなみに『サラブレ』本誌の5月号、桜花賞のインプレでも書いたけれど、
アパパネはPOGの“我が愛馬”である。
だからこそゴール前の叩き合いでは
「蛯名(ヨシッ!)」、
「蛯名(オイッ!?)」、
「蛯名(頼む~!!)」と絶叫を続けた末、ゴールの瞬間には
「あぁ~」と悲鳴ともため息ともつかない無念の声を吐いた。そう、私もその時には
“覚悟”していたのだ。
ところが、後ろ髪を引かれる思いでスローのリプレイを見ると、
サンテミリオンに差し返された(横山典弘騎手によれば“一旦は
アパパネにクビぐらい、前に出られた”そうである)ように感じた
アパパネの頭が、グイッと下がってフィニッシュラインをとらえている。
贔屓目に見れば、むしろ
アパパネが優勢と見えないこともない。で、慌てて検量室へすっ飛んでいって目の当たりにしたのが、先の2人の騎手の表情だったというわけ。しかしそれでもなお、周囲には
「これは本当に分からない」という声が渦を巻いている。私もジリジリとした思いで、長い長い写真判定の発表を待った。そして──。
死力を尽くして樫の女王の座を争った2頭は、それぞれが未知のハードルに挑んだ。
アパパネの場合ならもちろん
距離だ。阪神JFと桜花賞を制し、世代ナンバー1の実力はとうに証明済みだったけれど、典型的なスプリンターと言えた母の血と、赤松賞や桜花賞で見せた折り合い難を考え合わせれば、2400mの距離にはやはり不安が先に立った。
一方の
サンテミリオンは
相手関係が“未知”だった。プリンシパルSの②&③着馬(クォークスター、バシレウス)を新馬と若竹賞で撃破し、フローラSでも一枚上の地力を見せ付けたとはいえ、フラワーCでは現実に
オウケンサクラと
コスモネモシンの後塵を拝している。
ただし、そのフラワーCではスタートの後手が響いて、レースの流れに乗り損ねた感もあった。ならば、牝馬の一線級(要するに桜花賞組)の中で、その実力はどのぐらいのポジションにランクされるものなのか。
アパパネの距離と同様、こちらも“走ってみなければ分からない”ファクターだった。
道中は中団馬群の後方につけ、
アパパネが
サンテミリオンをマークするような形勢で進んだ2頭。直線に向き、満を持した形で
アパパネが抜け出しにかかるが、これを許すまじと
サンテミリオンが食らいつき、記憶にも記録にも残る激闘が幕を開けた。
傍目には“未知”と映ったハードルは揃ってクリア。あとはたったひとつしか用意されていない女王の椅子に、どちらが座るかだけだ。その答えが出たのは、2頭が鼻面を並べてゴールを駆け抜けてから、10数分も過ぎてからだった。
10数分にも及ぶような写真判定の後は普通、大きな喜びの花が咲く一方で、なんとも表現しがたい落胆のエアポケットも生じるものである。ところがこの日、裁決室から出てきた職員がボードに向かい、
「写」の文字で括られていた2つの馬番を消して縦に書き直し、横に
「同」という文字を書いた時、検量室前ではいつもの2倍、喜びの花が咲いた。
いや、歴史的な瞬間を目の当たりにしたという傍観者の感激や興奮を加算したら、検量室を包んだ喜びのボリュームはいつもの数倍に及んだだろう。
表彰式が行われている間に敗者のコメントを収集し、それから優勝会見を聞くという取材手順が恒例になっている私だが、今日ばかりは他馬のコメント集めを放り出し、表彰式を見に行った。だって、こんな光景はもう二度と見られないかもしれないじゃないか。
パラパラとした雨が降りつけるターフの上を悠然と歩く2頭の女王とその関係者。そこには大きな、そう、本当に大きな喜びの輪が咲いていた。