高橋先生が競馬界に入るまでの紆余曲折を伺いました
2010.8.12
今週は、我が尾関厩舎の引っ越しが行われました。調教が終わった後ということで、暑いですし、いやぁ疲れます。
厩舎について説明させていただきますと、一般的な厩舎は20馬房があり、左右に調教師の住居と大仲と呼ばれるスタッフの休憩所、それと上部にスタッフが住むことが可能な住居がある構造になっています。JRAから借り受ける形ですので、当然、家賃を支払わなければなりません。
最近は各厩舎で改良、あるいは工夫を施すのが通例となっています。馬房の扉を(馬が)顔を出せるタイプにしたり、あるいは冷暖房完備であったりと、実に様々。我が尾関厩舎も、いま流行りのミストが取り付けられているのです。
厩舎だけでなく、調教師側の住居や事務所となる部分も各厩舎によって違うのですが、原則として出て行く時には借り受けた時と同じ状態で還さなければなりません。西塚厩舎が解散となった時も、同じ状態にして還えさせていただきました。
今回、厩舎が本決まりとなり、改めて気合いを入れて頑張って行きたいと思っています。
それでは今週は、高橋義博先生との対談の最終回になります。どうぞ。
[西塚信人調教助手(以下、西)]高橋先生は北海道大学を卒業されていらっしゃいますが、なぜこの世界に入ろうと思ったのですか?
[高橋義博調教師(以下、高)]正直に申し上げますと、私はアルゼンチンの移民なのですよね。移住したことがあるのです。
[西]えっ、どういうことですか!?
[高]アルゼンチンに渡ったのは大学を卒業してからです。大学で勉強していた専門は、馬ではなく牛でした。仲間が6人いまして、他の5人は乳牛で、私だけ肉牛だったのですが、健康畜からいかに生産を上げていくかということを勉強していました。
[西]はい。そこからなぜアルゼンチンなのでしょうか?
[高]あるところから、アルゼンチンで肉牛を飼いたいという人がいるとの話をいただいたのです。南米では、(牛に対して)日本のように濃厚飼料を与えるのではなく、ほぼ放牧という形で飼育されているのですよ。特に、その中でもアルゼンチンはいちばん安い肉が牛で、次が豚で、その後が鳥なのです。
[西]えっ、鳥肉がいちばん高級なのですか?
[高]そうです。日本では分厚いステーキが魅力とされる傾向がありますが、それがアルゼンチンでは鳥肉なのです。牛は、人口の倍もいる国ですから。なので、牛は手をかけないで飼育するという考え方なのです。そんな時に、テキサスなどで行われているフィードロットと言われる、人間の方が餌を与える方法で飼育しようとしていた方がいらして、とても興味があり、大学の勉強とは関係なく夢中になっていた僕に声を掛けられたのです。
[西]それでアルゼンチンに行かれたのですか。
[高]そうです。結局、一年も経たずに帰国することになってしまったのですけれど。
[西]仕事が上手くいかなかったのですか?
[高]簡単に言うと、いろいろ調べてありのままの数字を報告したところ、銀行の利子よりも安いのかということで、計画が無くなってしまったのです。正直に言ったことで、自分で自分の首を絞める形になってしまったのです。いまなら、可能性のあることも言えたのでしょうが、当時は二枚も三枚も舌がなかったのです(笑)。
[西]なるほど(笑)。
[高]家内も連れて行っていましたので、都会で仕事を探さなければならなくなりました。日本から輸入されている薬売りの話もあったりしたのですが、地方にまで出張することは避けたかったので、やりませんでした。そうして探したのが、厩務員です。
[西]南米の中でも、アルゼンチンは競馬が盛んで有名ですよね。
[高]そうですね。アルゼンチンの首都であるブエノスアイレス近郊には、ダートコースだけのパレルモ競馬場と芝コースだけのサンイシドロ競馬場、そして、少し離れたところにラプラタ競馬場があって、パレルモ競馬場のイタリア系のリセーリ厩舎という所で働き始めたのです。
[西]日本にいる時に競馬を見たりしたことはあったのですか?
[高]好きで観ていましたし、アルゼンチンでも休みの日には、競馬場へ観に行っていました。何かできることは?と考えて、朝4時に競馬場に行って、ゾロゾロと入っていく厩務員さんたちに混じって、通用門を「ディア」とあいさつしながら入っていったのです。もうその頃には、文化の違いにも慣れ、日本特有の謙譲の美徳はなく、『俺は農学士よ。栄養のスペシャリスト。誰か雇ってくれ』と言って歩きました。
[西]どうしてこれほど面白い話が知られていないのでしょうか(笑)。それでアルゼンチンで厩務員さんとして、どれくらい働いたのですか?
[高]6ヵ月間くらいですね。
[西]普通にパドックとかで引っ張ったりしたのですか?
[高]それはやらせてもらえなかったんですよね。永住許可もあったのですが、アスタマニセーナ(明日まで)の国ですから、厩務員登録がなかなか完了せず、結局、帰国するまでパドックで引くことはできませんでした。
[西]それで帰国して、馬の世界に入られたのですか?
[高]いえ。次の年の就職戦線に合わせて帰国して、恐る恐る教授を訪ねると、「仕方がないなぁ」と言いながら飼料会社を紹介していただき、就職が決まったのです。結局、そこで2年間働きました。
[西]あっ、その後に馬ですか?
[高]そうです。
[西]やっぱり馬の仕事に進みたいと考え直したのはどうしてですか?
[高]帰国した当初は、そういう思いはまったくありませんでした。ただ、馬と一緒に暮らした日々が楽しかった記憶があったことと、研究者として働いていたのですが、何年かすると営業に行かざるを得ない状況もあって、自分には合わないという思いがあったのです。
[西]なるほど。
[高]それで、直接、調教師の先生方や労組に履歴書を送りました。返事はほとんどありませんでしたが、ひとりだけ返事をくださった方がいらしたのです。そこには、『あなたが来る所ではない』というようなことが書いてありました。
[西]僕もそう思います。
[高]それでも諦めず、いろいろ当たっていたら、関西のある調教師さんに履歴書を出すように、という話をもらうところまできたのです。ただ、当時は名古屋圏で暮らしていたこともあり、できれば関東が良いと思ったので、伝手の伝手を辿って、川崎競馬場に厩務員として入ることができました。
[西]その時は、JRAと地方競馬の違いはご存じだったのですか?
[高]知らなかったのですよ。だから、一生懸命ここで頑張って力を付ければ、JRAに上がっていけると思っていました。そうしたら、一緒に働いていた人に、『バカだな、ここにいたら一生(JRAには)行けないぞ』って教えられたのです。
[西]それでどうしたのですか。
[高]半年くらい働いた時に聞いて、すぐに辞めました。逃げるように飛び出して、育成牧場で働き始めたのです。そこで馬に乗り始めたのですが、1日に3回落ちたりもしました。
[西]その時、おいくつですか?
[高]26歳でした。
[西]その年齢で馬乗りを始めるというのはすごいですよ。僕も大学院を辞めてからですので、23歳と遅かったんですけど。
[高]いま思うと、確かにあまりいないと思います。ただ、自分がこうだと思ったことに進んだだけなのですよ。
[西]ウチの親父(西塚安夫元調教師)も同じくらいだったはずです。
[高]ヤッチャンもそうだったはずですよね。そういえば、ヤッチャンに『お前、15-15はどう乗っているんだ?』と聞かれたことがあって、『風の感覚と完歩と』と言うと、『ジョッキーみたいなことを言うんじゃない』と言われました(笑)。
[西]お互いに厩舎も近かったですしね(笑)。
[高]あなたのお父さんはそういう人でしたね。
[西]それで馬乗りを覚えて、すぐに競馬場へ入ったのですか?
[高]いえ、助手の試験を3回落ちました。
[西]当時は、助手の試験があったのですよね。みなさん、けっこう落ちていらっしゃるみたいですね。結局、いくつで入られたのですか?
[高]28歳ですね。
[西]当時は年齢制限がなかったのでしょうが、いまで言うとギリギリの年齢ですね。先生、調教師試験は何回受けたのですか?
[高]僕はたくさん受けましたよ。記録でしたから(笑)。
[西]ウチの親父が記録だと聞いたことがあるのですが?
[高]ヤッチャンの記録を塗り替えたのは僕ですよ。僕が塗り替えさせてもらいました(笑)。僕は16~17回受けました。
[西]ウチの親父は11回とか12回だったと聞きました。それでは、調教師試験に合格したのは、いくつの時だったのですか?
[高]47歳です。もう70歳定年という制度ができていましたし、45歳の時にはもう受かることはないと思いました。受からせる方から考えれば、そう思うでしょう。
[西]そうかもしれませんね。いやぁ、凄いですよ。アルゼンチンでの馬との楽しい記憶に始まり、強い思いを持って入って、そして調教師になられたわけですが、ブッチャけ、どうですか!?
[高]とにかく悔いなくやりたいと思ってきましたし、これからもそう思っています。
[西]なるほど。いやぁ、私自身、良い勉強になりました。ありがとうございました。最後に、ひとつだけ質問させてください。先生のヘアースタイルについてなのですが…。
[高]これはですね、免許をいただいて北海道へ行ったのです。最初は北海道で何をすれば良いのか分からなかったのですが、とにかく行かなければならないと言われて行ったのです。名刺を作って、「開業する高橋です」と言って牧場を回っていたのですが、あるところで「高橋さんというのは英夫先生(高橋英夫元調教師)の息子さんか?」と言われたのですよね。その当時、調教助手だけでも『高橋』が8人いましたので、今後も同じことがあり得ると思い、何かインパクトをと考えて、このヘアースタイルに挑戦することになったのです。
[西]ある席で、先生がご自身で「チョンマゲの高橋です」と自己紹介されていたのを聞いて、『それって良いの?』と思ったことがありました。
[高]ひとつの売りですから(笑)。パカパカファームのハリーさんも『ちょんまげ先生』と言ってくれます。
[西]では、パドックとかで「チョンマゲ先生、頑張れ!」という声援が飛んでも良いということですか?
[高]僕はまったく構いません。ありですよ。でも調教師席では「切れ」と言われますし、ある先生には「床屋代を出してやる」とも言われるのですが、「G1を獲ったら切りますから」と返してきました。
[西]そうですか。
[高]先日、あるところで、「G1を獲ったら、髪の毛を切るそうですね」と言われました。「はい」と答えると、「それには障害G1も含まれるのですか?」と言われたのです。バシケーンをグランドジャンプに出走させる時だったのですが、「これだけ話題にしてくれるのなら、障害G1でも切ります」と言うと、「じゃあ、先生を応援しよう」と言って、「その時は私にも(髪を)切らせてください」と言われてしまったのですよ。(笑)
[西]なるほど(笑)。いやぁ、面白い話もたくさん聞かせていただき、僕自身、非常に勉強になることもあり、先生、本当に今日はありがとうございました。ぜひ、またお話を聞かせてください。
[高]本当に僕で大丈夫ですか。読者の方々からクレームが来ても知りませんよ(笑)。
[西]いやぁ、喜んでいただけるはずです。本当にありがとうございました。
[高]こちらこそありがとうございました。
いかがでしたでしょうか。僕自身、高橋先生とゆっくりとお話をさせていただいたのが初めてだったのですが、とても良かったと思っています。
こういう言い方をしたら失礼なのかもしれませんが、なかなかいないキャラですよ。調教師というカテゴリーを取り除いても、なかなかいらっしゃらないと思います。
特に興味を引かれたのは、アルゼンチンでの話でしょう。そのような経験をお持ちだとは、今回お話をするまでまったく知りませんでした。
他の人が経験していないことをやってきている方の話は面白いものですが、いやぁ本当に面白かった。
高橋先生が大庭(騎手)に憧れるとおっしゃっていましたが、僕は高橋先生に憧れますよ。僕みたいな人間が言うのは失礼なのですが、本当に頭が良くて、優秀な人なんだと実感しました。
改めて人は話をしてみなければ分からないと思いましたし、話をしてみることの大切さを痛感させられました。ぜひ、また機会がありましたら、高橋先生に登場していただきたいと思っています。
来週は、何人かの方から質問が届いている預託料についてお話をしたいと考えております。質問のある方は、ぜひメールを送っていただければと思います。
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