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【対談・橋本広喜助手①】今回のゲストは“アンパンマン”こと橋本広喜助手・元騎手です!
2015.7.8
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橋本広喜調教助手・元騎手…以下[橋]
西塚信人調教助手…以下[西]

[西]今回は元騎手で、現在は伊藤圭三厩舎で調教助手として活躍しておられる橋本広喜先輩をお迎えしました。よろしくお願いいたします。

[橋]こちらこそよろしくお願いいたします。



[西]まずは読者の方々に、私と橋本さんの関係についてご説明させていただきますと、子供の頃に挨拶をして「おっ、おはよう」と僕を認識してくれていた騎手が、記憶のなかで同級生の親父を抜きにすると3人なんですよ。西塚十勝厩舎所属だった菅原隆明さんキリサンシーで重賞を勝った(田中)勝春さん、それと橋本さんでした。裏の厩舎のお兄ちゃんで、“アンパンマン”と言われていたんですよ。

[橋]そう、隣でしたね。

[西]そして何より、中学生やそこらだった僕にお年玉をくれたのは、橋本さんだけだったんですよ。

[橋]ははははは。よく覚えているね。

[西]覚えてますよ。橋本さんが、まだデビューしたばかりとか、そういう時代でした。また、ウチは先生がベタベタする人ではなかったので、騎手の人たちが来ることがほとんどなくて、世界の今井さんと橋本さんだけ。今井さんは障害騎手で元日本代表ですよね(笑)。

[橋]うはははは。ノブ、面白いね。でも、当時の西塚先生は怖かったですよ。

[西]そう言われていたみたいですね。だから、2人しか厩舎に来なかったんでしょう。しかも、お年玉をくれたのは橋本さんだけでしたよ(笑)。

[橋]よく覚えているね(笑)。

[西]今井さんは大好きですし、いまでも毎朝会うと挨拶させていただいています。

[橋]でも、子供はね、お年玉欲しいし、くれる人は優しいということになるからね。

[西]当時藤沢厩舎は開業間もなくて、しかも息子同士が同級生でしたので、僕にすると『裏の藤沢んちの騎手の橋本さんが、おせち食べながらお年玉くれた』という感覚なんですよね。騎手でお年玉をくれたのは橋本さんだけ、ということは死ぬまで言わせていただきます。

[橋]うはははは。懐かしいね。お年玉で思い出すのは、あの当時はデビューして間もない若造でしたし、競馬場の相場がわからなかったんです。それがいまでは名調教師となられている某調教師さんのご子息に同じようにお年玉をあげたときに、受け取った後に父親である調教師さんに「あの人5000円しかくれないよ」という声が奥から聞こえてきたんですよね。

[西]うははははは。僕は1万円でしたよ。

[橋]でも、そうやってきて、いまでも橋本さんにお年玉をもらいましたよね、という感じで話をしてくれるのはノブだけかも。人間ですから、言われれば「あっ、覚えていてくれるんだなぁ」と思いますよ。

[西]ありがとうございます。

[橋]そういえば、僕もノブには思い出があって、ダビスタのソフトか、色紙にサインしたはずなんですよ。

[西]えっ、すみません。それは覚えてないなぁ。藤沢んちでよくやっていたことは覚えていますけど、サインかぁ。

[橋]カズ君(藤沢先生のご子息)に「裏の西塚厩舎の息子のノブです」と紹介されて、サインしたはずなんですよ。ダビスタとか、やっていたよね。

[西]ファミスタもやっていたんです。藤沢先生とダビスタもやったし、ファミスタもやったんですよ。

[橋]えっ、そうなの。それは凄い。

[西]この話をすると、皆さんに『信人ネタだろ』と言われるんですけど、藤沢先生と藤沢と3人でダビスタをやっていたときに馬なり調教をやっていたら、「それじゃ、仕上がらないよ」と言われたんです。

[二人](爆笑)

[橋]面白いね。ノブは本当に面白い。

[西]ありがとうございます。でも、ネタじゃありませんからね。

[橋]なかなかできない経験ですよ。

[西]本当にそう思います。そもそも橋本さんが藤沢厩舎の所属になったのはシンコウラブリイのデビューよりも前ですよね。

[橋]開業して5年目ですね。僕がデビューした年に先生が初めてリーディングを取ったんです。

[西]それじゃ、先生の初リーディングと橋本さんの新人王が同時だったんですね。

[橋]そうなんです。あの当時、岡部さんが全盛期で。「減量騎手を」ということになると3キロ減がありましたので、「じゃあヒロキで」となって、それで勝たせてもらうことができたんですよね。実際、1年目に31勝することができたんですが、そのうち9勝が藤沢厩舎でした。

[西]その時、藤沢厩舎は何勝したんですか?

[橋]36勝でした。

[西]半分までいかないですが、3分の1近いですからね。凄いですよ。

[橋]減量だけでなく、岡部さんが乗れないときに「下手だけどヒロキで良い」ということもたくさんありましたよ。新馬戦で岡部さんが乗って人気で負けてしまった馬たちで、2戦目に岡部さんが乗ることができなくて、僕が乗せてもらったときなんか、もう馬なりで、何もせずに勝たせていただいたことが本当によくありました。

[西]そうなりますよね。

[橋]1度競馬を経験したことで息づかいも良くなっていますし、54kgから51kgと軽くなるわけですからね。でも、4コーナーで「ヒロキ、まだだぞ、まだだぞ」と言われて、そのまま岡部さんの馬に粘り切られてしまったことがありましたよ。

[西]うはははは。岡部さん伝説のひとつですね。

[橋]でも、本当にそういうケースがハマったので、僕自身31も勝つことができたんです。

[西]シンコウラブリイはその直後ですか?

[橋]いや、僕が黄色帽(編注:新人騎手が被る)のときに攻め馬に乗っていたので、平成3年(1991年)にデビューですね。

[西]あの当時、藤沢厩舎の調教というのは、他とは明らかに違っていたんじゃないですか?

[橋]それまでの調教スタイルとは明らかに違っていましたよね。僕自身としては、そこでお世話になれたことが幸せでした。行き先が最後まで決まっていませんでしたので。

[西]あっ、そうだったんですか。

[橋]最初に関東と関西に分けられるんですが、関西は藤田、四位、安田(康)、宝来、河北、日吉が決まって、関東は徳吉が内藤厩舎、郷原が田村(駿)厩舎、そして水野が飯塚厩舎に決まったんです。関東で言えば、徳吉と郷原は父親も騎手でしたし、水野も父親が高崎の騎手という環境でした。それに対して、俺と土谷君の2人が決まっていないという時に、藤沢先生と助手の松田さんが攻め師を探しに来たんです。

[西]調教助手ということですか。

[橋]攻め馬ができる騎手候補生が欲しかったと聞きました。後に、藤沢先生は調教師として5人の騎手を育てようと思っていて、その1人目を預かろうと探しに来たらしいんですよ。「ヘコタレなくて、とにかく根性のある奴が欲しい」と言ったら、丸い方どうですかということになって、僕を選んでいただいたということなのです。

[西]橋本さんと土谷さんの二者択一で、藤沢先生が橋本さんを指名したということだったんだぁ。そこで逆になっていたら、また違った人生だったわけですから、そう考えると本当に運だなと思いますよ。

[橋]そうですよ。そこで選んでいただいた、それがアンパンマンの始まりとなるわけですから。

[西]それが日本の競馬を変えることとなる藤沢厩舎なんですからね。

※次回に続く

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