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『オジュウチョウサン 夢とロマンは果てしなく』
オジュウチョウサン誕生秘話と初勝利までの歩み


※本稿は、単行本『オジュウチョウサン 夢とロマンは果てしなく』(刊行KADOKAWA)の一部を再編集したものです。




はじめに


「競馬は1頭の馬を応援していると、みんなの和ができる。それがいい」。競馬の魅力を聞かれたときは、そう答えるようにしています。私の所有馬オジュウチョウサンはいったいどれだけの和を生んできたのか。どれだけの人に応援してもらってきたのか。想像もつきません。

平地競走で未勝利に終わってから障害競走に転向し、「絶対王者」と呼ばれるまでになりました。G1・5連勝のあとに平地へ再挑戦し、競馬場が人であふれ、「福島の奇跡」とまでたたえられた開成山特別の勝利がありました。ファン投票で選ばれ、天才・武豊騎手と「平成最後の有馬記念」への挑戦がありました。平地と障害の二刀流で戦ったあと、再び障害競走に専念し、石神深一騎手を背に不屈の絶対王者として、5度目のJRA賞最優秀障害馬のタイトル受賞を成し遂げてくれました。

「もうこれだけの馬は出てこないですよ」「歴史的な名馬です」「史上最強馬です」。和田正一郎調教師だけでなく、オジュウに携わるすべての人がそう口にします。

私だけの馬ではなく、もうオジュウはファンの馬であり、オジュウは競馬の世界に楽しく、ワクワクする話題を提供してくれた神様からのギフトです。

私はJRA賞授賞式の壇上で「オジュウをアイドルにしたいです」と話したことがあります。今や、日本からはるかかなた、イギリスやフランス、アイルランドなど世界中のホースマンにオジュウチョウサンを知っている人がいる。ユーチューブなどの動画投稿サイトやツイッターやインスタグラムなどのSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を通じて、世界中にオジュウチョウサンのファンがいます。これだけの馬を所有できたことは、オーナー冥利に尽きます。

これもよく言われることですが、確かに〝ネーミングの妙〟もあったのかもしれません。「オジュウ?」「チョウサン?」。不思議に思われる馬名は何も不思議なことはないのです。私の息子(次男)が子どもの頃、自分のことを「俺(オレ)」と言えずに「オジュウ(俺)オジュウ(俺)」と発音、発声していたこと。そこから「オジュウチョウサン」という馬名ができました。

「オジュウチョウサンについて本を書かないか」と何度も依頼を受け、そのたびに固辞してきましたが、2022年の中山大障害をラストラン、当日に引退式を執り行うことが決まり、「そろそろいいタイミングかもしれない」と思うようになりました。

私だから書けるオジュウチョウサン、オジュウとの出会いや競馬との出会い、なぜ、そして、どのようにオジュウチョウサンは生まれたのか、競馬という「最高のエンターテインメント」との向き合い方や楽しみ方、私なりの人生訓を「気の向くまま、心ゆくままに書いてみたい。知ってもらいたい」、そう思って、ペンを握りました。

競馬を愛する人(予想を楽しむ人、馬券を楽しむ人、馬を愛する人)、また、これから競馬を楽しみたい人、競馬は知らないけど、オジュウチョウサンは知っているという人、オジュウチョウサンに勇気づけられた人……、たくさんの人にオジュウチョウサンの魅力が伝わってくれれば、みなさんの和が大きくなってくれれば、うれしく思います。


第1章


オジュウチョウサン
生まれから初勝利まで


オジュウチョウサン誕生へ

あの日のことを今でもすぐに思い出します。馬産地の北海道日高にあるサラブレッドの総合商社、株式会社「ジェイエス」の繁殖牝馬セールの名簿、いわゆる、カタログをめくっていて、ふと手が止まりました。2008年の暮れだったと思います。

ちょうどその1ヵ月前、中央競馬の馬主登録所有者を対象とした共有システム「社台グループオーナーズ」で私が出資していた1頭の馬、パーフェクトジョイという牝馬がラストランを終えたばかりでした。

パーフェクトジョイは父が大種牡馬サンデーサイレンスの産駒で、2001年の香港ヴァーズを勝ったステイゴールド、母がミルジョージ産駒のユーワジョイナーという血統でした。

3歳春は忘れな草賞4着が目立った成績で一生に一度の晴れ舞台である桜花賞とオークス、牝馬のクラシック競走には縁がなかったものの、古馬となった4歳の6月に阪神芝1800mの和田岬特別を当時のレコードタイム(1分45秒3)で勝利しました。4歳暮れにオープン入りを果たすと、5歳4月には重賞の阪神牝馬Sで3着に入り、G1のヴィクトリアマイル(15着)へ出走を果たすまでになりました。

社台グループオーナーズが所有する牝馬には6歳春で現役生活を引退する規約があります。私は「人智を超えた馬」と称された父ステイゴールドにも出資をしていましたが、このステイゴールドの血統は人の想像を超えた成長力があり、「もしもパーフェクトジョイが現役を続けられればどうだったのかなあ」、そんな思いが私の中にはありました。

「よし、俺がその先の未来をつくってみようじゃないか」。ドン・キホーテになるような、トム・ソーヤになるような、ロビンソン・クルーソーになるような、そんな冒険心がわき上がってきました。

私が手を止めた「ジェイエス」のカタログのページには、シャドウシルエットという馬の名前がありました。

シャドウシルエットの血統表を何度も見返しました。それから、私は急に喉の渇きを覚え、デスクの上のカップに入ったコーヒーをグッと飲み干しました。

シャドウシルエットは「パーフェクトジョイの2歳下の半妹」でした。半妹とは、父が違うけど、母馬が同じ妹のことです。

ノーザンファーム(吉田勝已代表)の生産馬であり、父が2002・03年に天皇賞・秋と有馬記念を連覇した名馬シンボリクリスエス。母がユーワジョイナーという血統で、未供用(まだ繁殖入りしていない)の3歳牝馬です。

カタログには2005年の5月7日生まれと記載されていました。北半球のサラブレッドは1月~4月生まれが多く、やや遅生まれだったためなのか、それとも体質の弱さがあったのか、くわしいことはわかりませんが、未出走のまま中央競馬の登録を抹消されていました。

「この馬とステイゴールドを交配させれば、パーフェクトジョイに近い血統の馬ができる」。競走馬の世界には、ニックスという言葉で知られる有名な配合理論があります。「ニックス=好相性」です。

ステイゴールドとシャドウシルエットをかけ合わせ、パーフェクトジョイに近い配合をつくれば、パーフェクトジョイのように素晴らしい成績をおさめる馬が生まれるかもしれない。

好機は逃したくありません。私はすぐに携帯電話を手にし、日頃から懇意にしている坂東牧場(北海道日高町)へと電話をかけました。「今度の繁殖セールでシャドウシルエットという牝馬を買ってほしい(落札してほしい)のですが…」と伝えたのです。

2009年1月28日、シャドウシルエットは私の代理を務めてくれた坂東牧場によって、150万円(税抜き)という、サラブレッドとしては比較的安価な金額で落札されました。

「面白くなってきた」。このときはまだ私自身も、壮大な夢とロマンの物語が加速し始めた瞬間だとは気付いていませんでした。


長男坊と次男坊

繁殖牝馬セールで落札されたシャドウシルエットはそのまま坂東牧場に預かってもらうことになりました。坂東牧場は昭和25年(1950年)に創業。競走馬の生産&育成を行っている総合牧場です。そして、計画どおりにステイゴールドと交配し、落札の翌年(2010年)の2月11日、初子の牡馬が生まれたのです。

「オーナー、素晴らしい馬が生まれてきてくれましたよ」。そういう報告を受け、動画で確認すると、かわいらしい男の子です。「バネがありそうだぞ。いい顔つきをしている。これは走る(活躍する)ぞ」。私は胸の中で小さくこぶしを握りました。

育成期間も元気に、順調に育ってくれたこの男の子は美浦トレセンの小笠倫弘厩舎に預託することが決まりました。

2歳になると、競走馬としてデビューする日がやってきます。馬の名前は「ケイアイチョウサン」に決めました。私は個人で所有する馬には家族の名前を付けることをモットー、指針としています。私が親しくしている人のイニシャルが「K」でした。

「よし、決めた。Kを愛する。これでどうかな」

多くの人はケイアイと聞けば、「敬愛(うやまい、親しみの心を持つこと)」の二文字が浮かぶかもしれません。

さて、シャドウシルエットの初子であるケイアイチョウサンの生後の評価が非常に高かったこともあり、2年目の交配シーズンになって、私は迷うことがありませんでした。

「今年もシャドウシルエットにはステイゴールドを種付けしてほしい」。坂東牧場にそのように依頼(オーダー)しました。

私が社台サラブレッドクラブで出資していたステイゴールドは現役50戦目、ラストランとなった2001年の香港ヴァーズで悲願のG1初制覇を果たしていましたが、2002年の種牡馬入り当初は種付け料も安く設定され、大きな期待をかけられていたわけではなかったのを、自らの種牡馬としての実力、つまり、産駒の活躍で、その評価を高めていった馬です。

2004年に生まれた産駒2世代目に誕生したG1馬がドリームジャーニーでした。同馬は2006年に2歳王者を決めるG1朝日杯FSを勝つと、5歳になった2009年には宝塚記念、有馬記念でグランプリ連覇を果たしました。この頃、種牡馬ステイゴールドの評価が確実に高まりつつありました。

2010年、前年に続いて、シャドウシルエットはステイゴールドと交配されました。2011年4月3日に生まれてきた2番子は全兄よりも馬格に恵まれた鹿毛馬でした。2年連続となる牡馬の出産です。

放牧地を走り回る姿には、かわいらしかった長男坊ケイアイチョウサンとは違う雰囲気がありました。父のステイゴールドや兄のケイアイチョウサンとは異なり、額には「大きな白い流星(模様)」がありました。

こちらの心の中をすべてわかっているような、射抜くような力強い瞳の持ち主。それが「次男坊」の第一印象です。

デビューが近づき、馬名登録を申請する頃には、私の心の中ではっきりと名付ける馬名が決まっていました。

「次男だし、オジュウ(次男のあだ名)にしたいと思うけど、どうかな」。妻に相談すると、「いい名前じゃない」とうれしそうな声が返ってきました。こうして、オジュウチョウサンという名前が決まったのです。


デビュー戦

2012年の夏にデビューした長男坊のケイアイチョウサンは5戦目で勝ち上がりを決めると、翌年の昇級初戦で重賞の京成杯に挑戦し、3着に好走しました。

2勝目を挙げたのは2013年5月の東京競馬場でした。世代の頂点を決める競走、キズナが勝ったダービーに出走することはかないませんでしたが、6月末に福島で行われたラジオNIKKEI賞を鮮やかな差し切りで制しました。

小回りコースで先行有利の福島競馬場で、直線は内ラチ沿いからごぼう抜きという圧巻のパフォーマンスでした。秋初戦のセントライト記念も後方から最速上がりで5着まで追い込み、三冠最終戦の菊花賞には伏兵の1頭として挑むことになりました。

「エピファネイアという大本命馬を相手にどのくらいの競馬ができるかな」。はやる気持ちを抑えることはできず、数週間前から京都行きの手配を整えていると、ケイアイチョウサンを管理する小笠調教師から電話がかかってきました。

「オーナー、お預かりしている弟のオジュウチョウサンも菊花賞の週にデビューさせようと思うのですが…」

菊花賞前日の土曜に、東京競馬場で次男坊のオジュウチョウサンがデビューすることになりました。

秋の東京開催というのは各オーナー、各牧場の特に期待する馬たちが多く顔をそろえるものです。なぜなら、東京競馬場には広く長い直線コースがあり、翌年にダービーが行われる競馬場だからです。

オジュウがデビューしたのは15頭立ての芝1800m戦。調教では目立った時計が出ておらず、15頭立ての12番人気という低い評価でした。

コンビを組んだのは私の所有馬チョウサンで毎日王冠を勝っている松岡正海騎手。マイネルキッツで天皇賞・春を制覇した経験も持っている関東の勝負師です。

松岡騎手を背にしたオジュウチョウサンはスタートダッシュがつかず、後方のまま直線に入ってきました。最後は大外から伸びてきましたが、初戦は11着に終わりました。

「馬はすごくいいです。いいのですけど、(馬体が)ユルユルでまだ全然走れていないですね」。騎乗していた松岡君はオジュウの素材をほめてくれました。

兄のケイアイチョウサンより一回り以上大きい馬体は490kgありました。確かにこの日のパドックでも、迫力のある巨躯に反し、歩き姿や踏み込みには危なっかしさ、ひ弱さが感じられました。

思えば、ケイアイチョウサンの新馬戦も7着だったので、「オジュウもあわてることはないな」というのが、このときの私の思いでした。

1ヵ月後の東京競馬場で、初戦からの前進、着順を上げることを期待した2戦目は8着に敗れました。11番人気で初戦同様にスタートダッシュがつかず、後方から流れ込むだけの惨憺たる内容でした。

勝ったディープインパクト産駒のベルキャニオンが2歳コースレコードを記録したレース(東京芝2000mで2分1秒1)でしたので、当時のオジュウの完成度では厳しいものがあったのは間違いありません。

ただ、他にも不思議に思うところがありました。初戦に比べ、2戦目を終えたときの方が走りきった感じがしなかったのです。

「3戦目をどうしようか」。競馬とは机上の計算どおりにはいかないものです。しばらくして、オジュウには骨折が判明しました。幸いなことに競走能力には影響がないものでしたが、長期の休養は避けられず、3歳シーズンのクラシック(皐月賞、ダービー、菊花賞)は断念せざるをえませんでした。


長期休養と障害転向

競馬にも人生にもさまざまな格言があります。オジュウチョウサンを見ていると、「無事是名馬」や「急がば回れ」という格言が浮かんできます。競走馬、サラブレッドというのは生き物で、われわれ人間と同様に体調は日々変化していくものでしょう。

「後悔先に立たず」ということわざもあります。慎重に物事を進めることも大事ですが、一方で、おびえていては何もつかめません。セールで何千万円、何億円も出して買った馬が調教中やレース中の事故でデビューできないこともあります。勝負事ですから何が起こるかわかりません。勝つためにベストを尽くして調教した結果、ゲートインすらかなわないこともあるでしょう。そんなときは、それがその馬の持っていた運命だったと思うしかありません。

デビュー2戦を終えたオジュウチョウサンに骨折が判明したという報告を受けたとき、ふと思いました。「頭のいい馬だ。もしかしたら、最初の2戦も走りすぎないように自らセーブしていたのかもしれない」。

アスリートは限界を超えたパフォーマンスをすると故障してしまいます。100m走の選手だって、マラソンランナーだって、速く走りすぎれば故障してしまう。剛速球投手も自らの限界を超えた速球を投げてしまえば、肩や肘が悲鳴を上げ、投手生命を絶たれ、現役生活を断念しなければいけないような大きなケガを負ってしまいます。

速く走る馬ほど故障しやすいのは当然のことでしょう。限界を超えたパフォーマンスをしたことで、競技者の寿命は縮むのかもしれません。

誰に聞いたわけでも教えられたわけでもない。ただ、オジュウチョウサンはそのことを生まれながらに知っていました。「無事是名馬」。今はまだ限界を超えるところではない。誰よりもオジュウ自身がそうわかっていたのではないか。私はそう思います。

2歳秋に2戦した後、美浦トレセン近郊の牧場へ放牧に出され、態勢を整えてから、3歳の3月に美浦へ入厩しましたが、思ったように状態が上がってこない。結局、骨折が判明し、オジュウは再度放牧へ出されました。彼が復帰戦に挑もうというときは秋になっていました。すでに平地競走の未勝利戦、当時はスーパー未勝利と呼ばれるラストチャンスの未勝利戦が組まれていましたが、それも終了しており、サバイバルの時期も終わっていました。未勝利戦で勝ち上がることができなかった馬の選択肢は3つ。中央競馬の登録を抹消するか(地方へ転出、乗馬へ転向など)、1勝クラスなど上のクラスに格上挑戦を続けるか、そして、もうひとつの選択肢があります。

偶然と必然は紙一重――。平地競走で未勝利戦に出られないオジュウチョウサンは必然的に、障害競走へ矛先を向けることになりました。

放牧先の北総乗馬クラブ(千葉県香取市)でオリンピアンの林忠義代表に仕込まれると、その才能の一端を見せてくれたといいます。障害馬術の日本代表として、シドニー、アテネと2度の五輪に出場したトップ選手が飛越の才能をほめてくれたオジュウはトレセンに入厩し、レースへ向けたトレーニングを開始しました。

そして、11月初旬、障害試験に合格します。オジュウの父ステイゴールドは香港名が「黄金旅程」でした。オジュウチョウサンの旅程は今、どのあたりなのか。経済動物という側面のある競走馬は、未勝利戦が終わった時点でその旅程が終わりを告げることもあります。まさか、ここから果てしない旅程が続いているとは…。


障害初戦伝説の「13秒7差負け」と
転厩と和田正一郎厩舎

2014年11月の福島競馬場、障害初戦(未勝利)を大差の最下位で負けた後、オジュウチョウサンは小笠倫弘厩舎から同じ美浦トレセンの和田正一郎厩舎へ転厩することになりました。

転厩の理由は意見の相違があったため、馬のために環境を変えたかったため、です。私自身、調教師と馬主がお互いに意見を言い合うことや、意見がぶつかることは間違いではないと思っています。競馬に限らず、ビジネスにおいても、私生活においても、忖度ばかりで動いては、いい方向に物事は進みません。

たとえ、今日は分かれて違う道を行くことになっても、またいつの日か同じ道を歩くこともあります。自分のことを思い、相手のことを思うから本音が出るのだと思います。

小笠君は日本の最高学府「東京大学」の出身で学業成績は優秀だったと思いますし、調教師としてもこれから実績を重ねていく有望株のトレーナーです。そして、JRAの調教師はみなJRA独自の厳しい免許試験をくぐり抜け、調教師バッジを着けています。

調教師は優秀な方が多いですが、一方で、競馬の世界で閉鎖された空間にいる時間が長いです。忌憚なく意見を言い合うことができなくなってしまい、馬の可能性の芽を摘んでしまうこともあります。だからこそ、転厩、厩舎を変えることには意味があると思っています。

オジュウの行き先は和田正一郎厩舎に決まりました。和田正一郎調教師の父の正道元調教師とは何度も意見をぶつけ合い、仲たがいし、これまでに何度も関係を修復してきました。後腐れは何もありません。

以前に正道氏から「息子をよろしくお願いします。とても真面目な男です」と紹介されていたのが正一郎君でした。

千葉県の成田高校を卒業後、北海道大学で獣医学を学び、トレセンに入った優秀な人物です。

弁が立つ父と比べると、口数も少なく、どこか物静かな印象でしたが、「強い意志を秘めた人物であるのかな」、そう思いました。余分なことは言わないが、ひと言ひと言に責任感を持っている印象です。

オジュウチョウサンを語るとき、平地未勝利の2連敗は落ちこぼれエピソードとしてよく語られていますが、この障害デビュー戦の最下位も同じようにオジュウの落第エピソードとしてアッサリと語られてしまっているように思います。福島の障害未勝利戦で14頭立て14番人気14着。勝ち馬とのタイム差は13秒7でした。大きく遅れてゴールしたこの伝説の敗戦には実は、はっきりとした理由がありました。

ひと言で言えば、「誤算」でした。障害競走はトレセンで行われる障害試験でJRAから合格を与えられなければ出走できません。合格をもらって初めて、出走資格が与えられるのです。

400kg、500kgの体重を持ったサラブレッドが全力疾走し、1mを優に超える大きな障害物を飛越します。また、コースに設定されたバンケット(谷や丘)を越えていかなければなりません。平地競走と同様、いや、それ以上に、人馬の意思疎通ができなければ勝負に参加することができないのが、障害競走です。

そういう意味で、この未勝利戦、大敗には訳がありました。誤算となってしまったのは、騎手事情でした。

オジュウはデビューへ向け、山本康志騎手が調教と障害の飛越練習を重ねていました。山本騎手は2011年の中山大障害をマジェスティバイオで制したG1ジョッキーです。障害試験も山本騎手を背に合格していました。調教を重ね、馬がレースに挑む態勢が整ってきました。ただ、山本騎手を背に水曜の最終調整(追い切り)を終え、いざ出馬投票という段階になって、同じレースで山本騎手のお手馬の出走が重なってしまいました。私のリサーチ不足だったかもしれません。

馬は仕上がっているのだからレースを走らせたいというのが心情です。結局、急きょ、若手で騎乗技術に定評のある大江原圭騎手に依頼することになったのです。大江原騎手は父の隆氏、おじの哲氏がともに元障害騎手の名手というバックグラウンドがあり、これからの飛躍が期待される若手騎手です。

私自身にもどこか障害競走に対し、甘い気持ちがあったことは否めません。終わってみれば、追い切りも障害練習もともに経験していない人馬がいきなりの実戦、しかも馬自身が初めての障害競走では戦えるわけがありませんでした。

オジュウチョウサンは最初の障害飛越から集団に置いていかれました。この日は初めてブリンカー(遮眼革=目のまわりをカップ状に覆って、横や後方の視界を遮る馬具。前方へ視点を向けさせることで、走りに集中させる効果が期待できる)を着用していましたが、レース映像にも馬群から大きく離されて走る姿がわずかに残っているだけです。無事にゴールすることはできましたが、あまりにひどい負けっぷりでした。

オジュウの名誉のためにも、大江原騎手の名誉のためにも記しておきたいのですが、この〝障害デビュー戦の伝説的大敗〟は決してオジュウチョウサンが障害物におびえたわけでもなければ、大江原騎手が下手に乗ったわけでもありません。負けるべくして負けた。そんな13秒7差だったのです。古くから伝わる格言「負けに不思議の負けなし」。これがオジュウチョウサンの障害デビュー戦大敗の真相です。


転厩初戦

障害初戦には騎手の誤算とともに1年ぶりの休み明けという面もあったのは事実でした。2戦目となった2015年1月5日の中山競馬場、和田正一郎厩舎所属でパドックに現れたオジュウの肉体は見違えていました。

1年ぶりの実戦を12kgの馬体増で走った後でしたが、絞れるのではなく、さらに6kgほど馬体を増やしていました。まだまだ緩さを残したシルエットですが、504kgの堂々たる姿。新たな環境、和田正一郎厩舎の調整法、いわゆる、水が合ったのでしょう。

年明けの競馬で、空には厚い雲がありました。ただ、オジュウの馬体は輝いて見えました。前走で初めて着用したブリンカーは効果がなかったため、この日は初めてチークピーシズ(頬=チークの部分に装着し、横や後方の馬を気にする馬を集中させる効果が期待できる)を着用してレースに臨みました。

水色のメンコ(覆面)、チークピーシズを着用したオジュウはスタートこそ、これまでと変わらず後方になりましたが、最後の直線で怒濤の追い込みを見せ、2着に入りました。12頭立て11番人気での激走でした。続く中京のレースは3着に敗れましたが、障害競走4戦目で待望の瞬間はやってきました。


初勝利

よく言われることですが、競馬は負けることの多いスポーツです。18頭が出走していれば、勝つ馬は1頭、負ける馬は17頭います。同着(デッドヒート)のときもありますが、1勝するのは本当に難しい。どんな名調教師も名騎手も負けることの方が圧倒的に多い。たかが1勝、されど1勝。だから、すべてのホースマンは1勝をかみしめます。

4歳の2月に東京で行われた未勝利戦でオジュウチョウサンは初勝利を挙げました。スタートから最初の障害、2つ目の障害は最後方で飛越。徐々にポジションを上げ、2周目の向正面で先行勢を射程圏に入れ、最後の直線の半ばで先頭に立つと、最後は後続との差をジワジワと広げていきました。2着イフウドウドウに3馬身半差をつける快勝でした。

「この競馬ができたのですから、これから先が楽しみになりました」。和田正一郎調教師がレース後、興奮気味に語った言葉に私も深くうなずきました。G1フェブラリーS前日のノンビリとした空気の競馬場。障害未勝利戦はお昼前の4Rでした。勝利を見届けた私が帰路につこうと、スタンドを出て、京王線の府中競馬正門前駅へ向かって長い渡り廊下を歩いていると、周囲を歩く人たちの声が聞こえてきました。「オジュウチョウサンって、変わった名前だなあ」「いや、でも、強かったよな」「将来、すごい馬になるかもよ」。競馬ファンの声を聞きながら、耳を澄ませて歩いている私の横を、スキップしながら駆け抜けていく少年がいました。「オジュウチョウサン、オジュウチョウサン、今、先頭でゴールイン」。その場に居合わせた誰もが笑顔で少年を見つめていました。

それからちょうど1ヵ月後、昇級初戦の障害オープン(中京)は緩い馬場で慎重なレース運びとなりましたが、最終障害を越えてから先に抜け出していたアドマイヤサイモンを見事に差し切り、連勝を決めました。私の脳裏には、1ヵ月前、あの渡り廊下で見たファンの姿、オジュウになりきって駆け抜けていった少年の姿が浮かびました。


『オジュウチョウサン 夢とロマンは果てしなく』

J・G1を9勝、史上最多となる計5回のJRA賞最優秀障害馬に選出されるなど輝かしい実績を挙げ、ファンに愛されたまま2022年12月に引退した競馬界のアイドルホース・オジュウチョウサン。本書は、そのオーナーである長山尚義氏が、愛馬の誕生から現在までのドラマチックな軌跡を綴った初のノンフィクション。当歳時から引退後までのメモリアル写真や、8年間オジュウチョウサンに連れ添い続けた長沼昭利厩務員の特別寄稿も掲載されており、オジュウチョウサンとそのライバル、関わった人たちの記憶を記録した一冊となっている。

【書籍内容】

<特別企画> オジュウチョウサン メモリアル・フォト
第1章 オジュウチョウサン 生まれから初勝利まで
第2章 オジュウチョウサン パートナーとの出会い、絶対王者へ
第3章 オジュウチョウサン 平地レースへの挑戦、有馬記念へ
第4章 オジュウチョウサン 不屈の闘志と幸せなラストラン
第5章 わが黄金旅程
第6章 愛しの愛馬たち――オジュウチョウサンと出会うまで
第7章 夢とロマンの半生を オジュウチョウサンのこれから
<特別寄稿> 長沼昭利 厩務員

【通信販売 / 電子書籍】(Amazon)
https://www.amazon.co.jp/dp/4047374970/

【KADOKAWAオフィシャルサイト書誌詳細】
https://www.kadokawa.co.jp/product/322302000441/

【関連サイト】
https://twitter.com/SpoBun
(KADOKAWA AA企画課公式Twitter)


著者 長山尚義氏 プロフィール

1945年生まれ。オジュウチョウサンのオーナー。1985年に日本中央競馬会の馬主資格取得。1999年より個人で馬を所有し、2007年にチョウサンで毎日王冠を制して重賞初勝利をあげた。


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