完璧な人馬による、完璧な勝利だった、しかし……
文/秋山響

文句なしの勝ち方だった。
好スタートを決めた
ダイワスカーレット。
「ペースを緩めないほうがむしろいい」という
安藤勝己騎手の判断の下、スタートしてから
11秒台のラップを4度続け、ライバルたちを牽制。
これで、ライバルジョッキーに
「ついていっては共倒れになる」という心理を植え付けることに成功した
安藤勝己騎手と
ダイワスカーレットは、
1000mを過ぎていったん、400mほど
13秒台にまでペースダウン。そこで息を入れると、再びフィニッシュに向けてペースアップ。後続をあっさりと突き放した。
影をも踏ませぬ逃げ切りとはまさにこのこと。変幻自在にペースを操る
安藤勝己騎手、そしてそれに見事、応えた
ダイワスカーレット。完璧な人馬による、完璧な勝利だった。
だが、これだけの走りを見せられても、
ダイワスカーレットを日本一とはまだ認められない自分がいる。
今回の
有馬記念における
ダイワスカーレットの走りも、これまでのレース、特に
天皇賞・秋での素晴らしい二枚腰を見たいまでは、
「当然」とさえ思えてしまうのだ。
ダイワスカーレットの強さは認めつつも、ここに
ウオッカや
ディープスカイがいたらどうなっていたのだろう。そんな引っかかりが心のどこかに残った。
いや、実は引っかかりはレース前からあった。
有馬記念が持っていた
日本一を決めるというアイデンティティは失われつつある。
ウオッカ、
ディープスカイといった有力どころが次々に回避を表明していった、
ジャパンCから
有馬記念までの間、そんなことを考えていたのだ。
では、なぜ
有馬記念がそうなってしまったのか? 答えは簡単だ。
ジャパンCと有馬記念の位置づけが被ってしまっているからだ。
かつて、
ジャパンCは
世界の強豪を日本馬が一丸となって迎え撃つという、いわば
「団体戦」に近い図式の盛り上がりがあった。一方、それに対して
有馬記念は
日本一を決める
「個人戦」のようなレースとして機能していたように思う。両レースはともにはっきりとしたアイデンティティを持っていたわけだ。
しかし、それがどうだ。いまや
ジャパンCは、
日本馬が強くなったことで、
外国馬のほとんどが勝負にならなくなり、日本馬対外国馬という図式が崩壊。
日本馬同士の「個人戦」になりつつあるのだ。
そして、
ジャパンCがそのアイデンティティを失いつつあることが、
有馬記念にも影響を及ぼしている。
率直に言って、有馬記念とジャパンCの違いが分からないのだ。
日本一を決めるレースがふたつある、と言い換えてもいいかもしれない。
しかも、両者の間隔はわずか
1カ月しかない。両方を狙いたいのは山々だが、この短期間で二度も馬をピークに持っていくのは難しい。
「二兎を追う者は一兎をも得ず」ということわざもある。
関係者がどちらか一本に照準を合わせるのは当然だろう。両方使えと言うのは無理があるのだ。結果、当たり前のことではあるが、有力馬は1レースには集まらず、分散することになる。
では、どうすればいいのだろう。結論から言えば、
有馬記念かジャパンCのどちらかをなくす、もしくは性質を変えるしかない。頂点を決めるレースはひとつでいいのだ。
有馬記念と
ジャパンC。どちらを
チャンピオン決定戦として残すのか。その選択をしなければならない時は近づいているように思う。