同じジュニアでも、競馬への入り方はちょっと違うようです
2010.4.15
先週の日記で話をノボパガーレが勝ってくれました!
話をしたのだから、勝てるという自信があったんじゃないかと言われますが、状態の良さには自信はあったものの、いままでにも同じくらいの状態の時が何回もあって、それで勝てていませんでしたので、勝てるという自信まではなかったです。
ただ、これまで1000mダート戦を走ることが多かったのですが、1000mだと好走はできるものの、勝ち切るまでには何か助けが必要かもしれないという印象を受けていました。1200mは個人的には合うのではないかという思いがあったのですが、今回の走りをみる限り、やっぱり合いますね。
こういうケースの勝利は厩舎にとって大きい。このような1勝が、勝ち星の量産には不可欠だと思います。
あっ、あと、もう1頭のノボチャンも3着に敗れてしまいましたが、頑張ってくれました。ただ、ブッチャけさせていただくと、ここからの調整が難しかったりするんですよ。牝馬の中1週、いやぁ難しい。
さて、今週は池上さんとの対談の3回目となります。それではどうぞ。
[西塚信人調教助手(以下、西)]池上さんは僕と同じいわゆるジュニアですが、東京出身なんですよね?
[池上昌和調教助手(以下、池)]そうです。
[西]競馬を観に行ったりしていたのですか?
[池]いや、行ったことはまったくありませんでした。
[西]あっ、そうなのですか。
[池]僕が2歳の時にトレセンができましたが、東京にある母の実家に住み、父が単身赴任という形の生活となったのです。
[西]じゃあ、ほとんど記憶にはないのですね。
[池]馬を見たことはありませんし、競馬場に行ったこともありません。ただ、夏になると、なぜか父親が3ヵ月くらいいなくなる、ということだけでした。
[西]昔は、出張と言えば滞在でしたからね。
[池]そうです。そして、小学生になって、日曜日とか、キャッチボールをしたいのにいないわけですよ。そういう記憶が残っていますね。
[西]池上先生が騎手を引退されたのは、池上さんがいくつの時だったのですか?
[池]調教師試験に合格したのが中学校2年生の時で、開業が翌年ですから、そこまでは現役だったということですね。
[西]現役時代のお父さんというのは記憶に残っていますか。
[池]まったくないというか、これを言うとなかなか信じてもらえないのですが、自分の父親が何の職業をしていたのか、知らなかったのですよ。
[西]えっ!? 騎手であることを知らなかったということですか?
[池]いまにして思えばそれこそ不思議に思うのですが、離れて暮らしていたこともあり、何をしているのかよく分かっていませんでした。中学校の生徒手帳の緊急連絡先に「日本中央競馬会」としか書いてなく、競馬そのものが分かっていなかったのです。
[西]そうですか。でも、オグリキャップが出現するあたりまでは、正直、競馬があまり認知されていませんでしたよね。
[池]オグリキャップが登場して競馬ブームとなった時が、ちょうど高校1年生でしたね。その時には父が厩舎を開業していて、オグリキャップの引退レースとなった有馬記念が、生まれて初めてライヴで観戦した競馬だったんですよ。
[西]それに触発されて、この世界を目指したのですか?
[池]いえ、競馬ブームの中でのひとりのファンでしかありませんでした。学校でその週のG1レースについて話をしたりしていましたが、『俺の親父が…』ということにはなりませんでした。ただ、そのブームのお陰で、父親の職業を知ったのです。
[西]競馬に関心を持ったのは、大学に入ってからですか。
[池]大学で乗馬を始めたんですが、それも最初は遊び感覚でした。
[西]ジュニアの中には、それまで競馬にまったく興味がなかった人でも、大学あたりから意識し始める人が多いように感じます。
[池]そうではなかったですね。現実に、理工学部で学び、一般企業の3社から内定をもらっていましたから。
[西]それを断って、競馬の世界に入ったということですね。
[池]大学の先輩たちから、理系だからといって好きな事がやれるわけではないという話を聞いたりしていました。ただ、最後は乗馬をやっていく過程で、馬の魅力を感じたというのが決め手でした。
[西]最初から父親の後を継ごうという意識ではなかったんですね。
[池]そういう意識はまったくありませんでした。もし、そのつもりだったら、馬術部に入っていたでしょう。
[西]英国に留学されていたのはいつ頃ですか。
[池]大学を卒業した時点では、この世界に入ろうとは思っていました。その前に、外国へ行ってみたいという思いがあり、つてがなかったので語学留学という形で行ったのです。どこが良いかという知識はまったくなく、たまたま選んだ所がニューマーケットの近くのケンブリッジだったんです。実際に現地に行ってから、ニューマーケットが近いと知りました。
[西]そのまま厩舎で働き始めたわけですか。
[池]休日に競馬場に行ったりする中で様々な人たちと知り合いまして、語学学校に行きながら、育成牧場で週末だけお手伝いをさせてもらうようになったのです。いきなり厩舎で働くことは無理ですし、仕事とはとても呼べるものではありませんでした。半年間、そういう生活をして、語学学校が終了となったので、一旦帰国して、再びその育成牧場に戻ったのです。
[西]最初に競走馬に触れたのが日本ではないということですね。
[池]住み込みで、お小遣い程度のみでの生活でした。朝から晩まで仕事をして、いま考えると、もう二度と同じ生活はできないと思うような忙しさで、とにかく毎日が死に物狂いという感じでした。でも、全部でわずか9ヵ月でしたけれど、僕自身の下地になったと思います。
[西]海外で働いた経験を持つ人はトレセンにも多いですが、そこまで苦労した人は少ないと思いますよ。
[池]当時はニューマーケットにも、日本から来ていた人たちが多かったのですが、僕が働いていた所には自分ひとりでしたので、それが当たり前だと思っていたんですよね。
[西]日本とは、やはり違いましたか。
[池]日本のように時計を採るわけではないですし、キャンターのスピードひとつをとってもメチャクチャ速かったりするんですよ。いわゆる当時言われていた藤沢流です。しかも、それでいながら、誰も引っ張っているわけじゃないのです。縦列なのに、「ああっ、行かれてしまったぁ」という感じですからね。
今週はここまでとさせていただきます。
今回の対談の先々週の回で話の出たギンザボナンザが桜花賞に挑戦しました。7着という結果で残念でしたが、テレビでパドックを周回する姿を見て、状態は良さそうに映りましたし、体重も前走と同じだったということで、栗東に滞在したことは成功だったと思います。
↑桜花賞パドックでのギンザボナンザギンザボナンザ、そしてアパパネなど、栗東滞在組の姿や競馬を見て、個人的な意見を言わせていただければ、こと桜花賞に関しては、栗東に滞在するべきだという思いを強くしました。
もう1頭、個人的に厩舎が近いということもあり、注目をしていた馬がアニメイトバイオでした。
レース前の体重が前走からプラス2kgの472kgでしたので、マイナス20kgという体重を知った時には、正直、衝撃を受けました。誤解してほしくないので、敢えて言わせていただきますが、決して、だから滞在するべきだったということではないのです。
阪神JFの時には減っていなかったわけですし、たまたま今回が偶然だったかもしれませんし、もっと言えば、陣営はそれも想定内だったかもしれません。そこが敗因だとは誰にも分かりません。
では、何が言いたいかと言えば、「輸送は怖い」ということ。池上さんとの対談の中でも触れましたが、福島へ1泊というケースであっても、けっこう大きく変動したりするものなのです。
適切な言い方じゃないかもしれませんが、減るなら減るので良い。それが、減るはずの馬が減らなかったりすることがあるんですよ。だから難しいのです。輸送というのは怖いという思いを改めて強くしました。
ということで、最後はいつも通り、『あなたのワンクリックがこのコーナーの存続を決めるのです。どうかよろしくお願いいたします』。