モンストールが帰厩しました
2011.10.27
先日、モンストールが帰厩しました。昨日、速いところをやっていまして、個人的には戻ってきてからまだ跨っていませんので感覚は分かりませんが、ここまで順調に調整が進んでいる印象を受けます。
予定としては、京王杯2歳ステークスを目指すということですので、ぜひ応援していただければと思います。
それと、先週からゲストとして登場していただいております青木さんですが、先週の新馬戦で2着となっていました。
レースから時間が過ぎた火曜日の朝にお会いしまして、いつものことながら、僕に対して、『いやぁ、勝てていたレースだった。あそこまでいったら勝ちたかった』と熱気も冷めないままに、レースを振り返っていました。話を聞きながら、これぞ青木さんだなぁという思いになりました(笑)。
今週は、そんな青木さんとの対談の2回目になります。それではどうぞ。
西塚信人調教助手(以下、西)青木さんはアメリカにも行かれていましたよね?
青木芳之騎手(以下、青)そうですね。
[西]アメリカに行ったことがある人たちに聞くと、米国ではダグを踏んで、そこから向正面まで行って、キャンターをしたら終わり、というスタイルと聞くのですが、本当ですか?
[青]スタンド側に入り口があることが多く、5ハロンのところまで行ってそこからキャンターをやって終わり、というのがアメリカでは一般的でしょうね。
[西]角馬場とかはないのですか?
[青]角馬場はありますよ。ただ、角馬場ではジョッキーはほとんど乗せません。あくまで追い切りがメインでした。
[西]調教はあっという間に終わっちゃう感じですね。
[青]乗っている時間はそれほど長くないですよね。
[西]アメリカでも競馬に乗っていましたよね?
[青]自分でルイジアナに遠征した時に10頭程度でしたが、乗ることができました。ただ、2001年で、同時多発テロ事件があった時なのです。
[西]えっ、ちょうどあの時、アメリカにいたのですか?
[青]朝、調教が終わって、キッチンでコーヒーを飲んでいたら、おばちゃんたちが悲鳴をあげたのです。何かと思ったら、テレビにあの光景が映し出されていました。
[西]どういう状況だったんですか?
[青]国の機関とかも正常ではなくなってしまって、申請していたビザも、結局、出してもらえなくなってしまいました。
[西]そうだったんですか。
[青]厩舎の人間たちが移民局に口添えをしてくれたりもしたのですが、「このような状態のなかでは厳しい」と言われてしまいました。5ヶ月くらいいて、粘ったのですが、断念しました。
[西]10鞍乗れていただけに残念でしたね。
[青]不可抗力の部分がありましたが、悔しかったですね。
[西]アメリカだけではなく、ヨーロッパにも行かれていましたよね?
[青]2002年ぐらいに戻ってきて、その後はフランスとイタリアに行きました。イタリアには2回行っていて、2度目の時は日本にも来ていたD・バルジューの家に泊めてもらったりして、お世話になりました。ファルブラヴを管理していた調教師だったダグリアさんの所で調教に跨ったりしていましたよ。
[西]イタリアではどうだったのですか?
[青]勝てませんでしたが、競馬には乗せてもらいました。全部で30鞍くらいはチャンスをもらいましたよ。
[西]競馬場とかはどうなのですか?
[青]素晴らしいですよ。ローマがカッパネーロ競馬場、ミラノがサンシーロ競馬場となるのですが、どちらも素晴らしい競馬場です。
[西]フランスとか、イタリアだと、言葉はどうなのですか? 大変そうですけど。
[青]アメリカに行っていた後だったので、ある程度なら英語が理解できたので、何とかなりました。
[西]フランスはどうだったのですか?
[青]フランスはあまりにもチャンスが貰えませんでした。そこで、ミルコ(デムーロ騎手)に電話をしたのです。そうしたら、『来い』というので、バッグを抱えてTGVに乗って、ひとりで行きましたよ。
[西]ああ、それでフランスからイタリアに行ったのですね。
[青]当時は、ビザについて、それほどうるさくなかったのです。競馬も乗って大丈夫だと言われました。その時は1回目のイタリアで、トップトレーナーのひとりであるグリゼッティさんの所でお世話になったのですが、競馬には乗せてもらえませんでした。それで、一度、日本に帰りました。
[西]なるほど。それで、その後に再びイタリアに行って、D・バルジューのお世話になったということですね?
[青]そうです。日本に来たD・バルジューと出会って、仲良くなったのですよね。ダリオは日本語はまったくダメですし、英語力ということで言えば同じくらいだったので、お互いによく話をしました。
[西]そういう関係だったのですね。
[青]ダリオとエージェントが本当に良くしてくれましたので、2回目にイタリアに行った時に競馬に乗せてもらうことができたのです。
[西]そのイタリアから帰国したのはどんな理由だったのですか。
[青]母が亡くなったのです。
[西]あっ、失礼しました。
[青]いえ。ただ、突然でしたし、ショックが大きくて、1年間近く、仕事に気持ちが向かない日々が続いたのです。
[西]あっ、そういうことがあったのですか。そこから立ち直ったのですから、凄いですね。
[青]実は、運命的だと思うことがあったのですよ。母が亡くなった日は藤沢先生の誕生日なのです。ちょうど1年経ったその日に藤沢先生から『帰って来い』って電話をもらったのですよね。
[西]そうだったのですか。
[青]食事も思うように食べることができませんでしたし、お酒も飲めず、40キロくらいまで痩せてしまっていたのです。駅でお年寄りの方に、『どうぞ』と席を譲られてしまうくらい、健全じゃなかったようです。そういう状態でしたので、僕のなかでは、いつ辞めようかと考えていました。
[西]そんな時に師匠から『戻って来い』と電話が掛かってきたわけですね。
[青]徐々に気力も戻ってきていた時でもありましたが、本当に有難かったですし、心に染みました。
今週はここまでさせていただきます。
以前に、解散となった厩舎の馬房について話をさせていただきましたが、先日、河野厩舎の22馬房分の貸付が募集され、期限付きで行き先が決まりました。
1人の方、つまり2馬房が我が尾関厩舎にも貸しつけられることとなり、22馬房で来年の3月まで運営されることとなりました。厩舎の多くは基本的に20馬房という建築になっていますので、2馬房分をどこかに雑居する形となります。
我が尾関厩舎の場合は、作業上、全員で協力しながら作業を進めていくことになっていますので、この場合ですと、不都合が生じる可能性が出てきます。
個人的には、作業上の問題というのは、毎日のことですし、繁雑であればあるほどミスが生まれる可能性が高くなりますので、対応策を講じる必要性が出てくることになると思っています。
本厩舎の近くなら良いのですが、遠いケースもありますので、その際は、様々な工夫をする必要が出てくるでしょう。
厩舎にとっては馬房が増えるのは良いことだと思います。それだけ管理馬を増やすことができますし、多く出走させることができるわけですから。
ただ、言い方は乱暴かもしれませんが、余剰人員が出るたびに、どこかの厩舎に貸し付けが行われるというのは、まずは人員ありきということで、抜本的な問題解決にはならないと個人的には思っています。
経営者であるはずの調教師に人事権が与えられていないのが現実で、だからと言って従業員の人事がすべてに優先されるという政策については、組合に入っているものの疑問を感じます。
まとまりの無い話ですみません。この件に関しては、またの機会にさせていただきます。
ということで、最後はいつも通り、『あなたのワンクリックがこのコーナーの存続を決めるのです。どうぞよろしくお願いいたします』。