皐月賞2週間前で、良い緊張感を味わっています
2012.4.5
山吹賞でステラウインドが3番人気になりましたが、残念ながら4着という結果になってしまいました。ここを勝って12勝目を目指していたのですが11勝のままで、リーディング陥落と思っていたのです。
ところが、いろいろな方々に「まだリーディング」と言われまして、そのままなんだということを知りました。なので、馬場およびスタンドにおいて、「リーディングいじり」がもう1週延長されるということですね。
リーディングに対しては、「いじられネタ」という感覚でいます。それよりも、それぞれの馬たちにできることをしっかりとやっていくことが大切だと思っています。
さて、今週は添田場長との対談の3回目になります。それではどうぞ。
西塚信人調教助手(以下、西)場長がこの世界に入ったきっかけは何だったのですか?
添田昌一氏(以下、添)元は北海道大学の馬術部だったのです。
[西]高校時代も馬術部ですか?
[添]いえ、大学に入るまで触ったこともありませんでした。それがやってみたら面白くて。結局、3年生で日本一になったのですよ。
[西]天才だったんですね。
[添]でも、それがピークでした(笑)。その後、同じ馬術部の先輩に競馬の世界に進むのも良いんじゃないかとアドバイスしてもらって、ホースメンホープの生産者である鎌田正人さんに小林稔先生を紹介していただいたんですよ。
[西]あっ、そうだったんですか。その後は小林稔厩舎の調教助手として活躍されて、海外にも行かれていましたよね? アイルランドでしたか。
[添]そうです。1年間行かせていただきました。
[西]調教助手を辞めてからアイルランドに行ったということですか?
[添]調教助手を休職していきました。
[西]小林先生はそういうことに理解があったのですか?
[添]JRAが主催する1ヵ月の研修に行きたいと伝えたら、「行くならもっと長く行け」と言われたのです。結局、自分で探していったのですが、調教助手として名前を残してくれました。
[西]そうですか。なかなかできることじゃないと思います。
[添]その後、調教助手を辞めて、給料は安いけど、またアイルランドで働きたいと思ったのですよ。でも、女房とふたりで暮らすには苦しくてね。タイキファームの牧場で働いていたので、半年くらいしたら、日本で働くことを勧められたのです。
[西]へぇ、そうだったんですね。
[添]良い経験をしましたよ。例えば、疝痛になった時、油を飲ませるのも初めて見ましたし、いろいろな経験をさせてもらいました。
[西]そこから日進牧場に行ったのですね。
[添]ちょうどBTCが民間に使用許可が出る時でした。でも、直線の坂路など、どのように使用して良いのか手探りという感じでした。それと、英語が話せたのですよね。その頃、外国人を使いこなせる日本人が少なくて、一緒に働くことはできても、指示を出して調教をさせることができる人はいなかったのです。英語を話せる人はいましたが、馬乗りではありませんでした。それができたから、重宝されたのでしょう。
[西]ブレーキングからやったのですか?
[添]もちろん。外国人たちは騎手だから、やったことがないわけですよ。僕自身も、それほど経験があったわけではないですけど、アイルランドでブレーキングのやり方を教えてもらったのですよね。僕は自分の周囲を回すだけでしたが、ボスはロングレインで、ゲートを入れていたりしていました。それを見て、「こうやって教えるのが当たり前なんだ」と納得させられました。
[西]同じロンギでも、バテさせることを目的とするのと、教えることを目的としたのでは大きく違いますが、それが意識的に行われるようになったのは、そう古くないのですね。
[添]大手などではかなり以前から取り入れていましたが、一般的には私がアイルランドから帰ってきた頃だと思います。
[西]意外と浅い歴史なのですね。その後は、日進牧場からサーストンに移られたのですか?
[添]いえ、シンボリ牧場で場長を務めていました。
[西]あっ、そうだったんですね。シンボリ牧場は千葉の方ですか?
[添]そうです。育成の方でした。5年間いましたね。
[西]シンボリインディの頃ですか?
[添]まさにそうです。そのあと、シンボリクリスエスも手掛けることができて、もうやり尽くしたかなという感覚になったんですよね。
[西]クリスエスも手掛けたのですか。
[添]そうですね。
[西]クリスエスは走ると思いましたか?
[添]最初は半信半疑でした。大型馬で、ちょうどランドヒリュウのようなタイプでした。蹄は大きいし、重厚な印象が強かった。それなのに、走らせたら素軽い。もし走ったら、超A級で桁が違うと思いました。
[西]へぇ、そうだったんだ。
[添]しかも、調教が進んで、速いところをやればやるほど、素軽くなっていくんですよ。「これは」と思わせられましたよ。
[西]重厚なタイプというのは難しいところもあったりしますよね。
[添]そう。でも、シンボリクリスエスは写真で見ると、本当にバランスが良いんですよ。蹄もそれだけ見れば大きいんだけど、体全体から見ると、バランスが良いんですよね。
[西]シンボリインディはどうだったのですか?
[添]小さいタイプで、切れ味がありましたよね。気持ちが前向きで、凄く印象に残っていますよ。
[西]そうなんだあ。話は変わりますが、昔といまでは、馬づくりというのは違いますか?
[添]例えばブレーキングとかは明らかに違いますよね。それと、僕が牧場で働き始めた頃から大きな変化を遂げたと言えるのは、飼い葉でしょう。いまでは様々な配合飼料がありますが、昔は与えられていませんでした。
[西]なるほど。
[添]僕がトレセンに入った当初は、圧倒的に関東馬が強かった。関西は歯が立ちませんでした。あの頃は関東に凄い騎手が揃っていて、騎手が凄いから勝てないとかも言われていたなぁ。
[西]そういう時代があったんですね。
[添]どうしても勝てない時代が続いて、どうしてだ?ということになった時、東京と中山には坂があるのに、京都は平坦、阪神も大したことがないという話が出て、「坂の違いだ」ということになったのですよ。
[西]そして、坂路が出てくるんですね。
[添]あの頃、ちょうど海外研修制度もできて、海外に行ってウッドチップの坂路があることを知って、その影響もあったのかもしれない。その話はセンセーショナルでした。
[西]それで逆転してしまうことになるわけですね。
[添]最初は戸山先生でした。その後に使い出したのが小林先生でしたね。最初はいろいろ言われましたけど、海外研修にいった人たちは「やれ、やれ」と言うわけですよ。若馬には負担があり過ぎるということも言われましたが、勝てないから、何か勝てる方法がないかと探していた。だから、徐々に使う人間が増えていきましたね。
[西]当時は画期的だったのでしょうね。
[添]画期的でした。でも、そのうちに、曲がらない馬とかが出てきてね。
[西]そうですね(笑)。
[添]新馬とかで、能力があるのに4コーナーで逸走しそうになってしまうこともありました。それで工夫して、試行錯誤をしながらやってきたのです。
今週はここまでとさせていただきます。
皐月賞の2週前となりました。モンストールが青ゼッケンを付けまして、いよいよ迫っていることを実感させられます。
西塚厩舎時代は、ノボライトニングでG1出走を経験させていただいていて、先日はサクラゴスペルが高松宮記念に出走して、青ゼッケンを付けています。それらに続いて、良い緊張感を味わわせていただいています。
モンストールならやってくれるという思いで、皐月賞までの2週間、モンストールの力を信じて、できる限りのことをしていきたいと思っています。
今回、添田場長と対談をさせていただいて、改めて「馬本位であるべきだ」と痛感させられました。技術的なことももちろん大切なのでしょうが、馬に対する思いということも忘れてはならないのですよね。
実際、こういうことは恥ずかしい気持ちもありますし、馬と純粋に向き合うということはそれほど簡単ではないんですよ。競馬に向かうことになればなるほど、難しくなるものです。
でも、馬と向き合うということは絶対に大切ですし、それがものすごい力となることも実感しています。この2週間、そういう思いを持ちながら取り組んでいきたいと思っています。
ということで、最後はいつも通り「あなたのワンクリックがこのコーナーの存続を決めるのです。どうぞ、よろしくお願いいたします」。