今回から、騎手と調教師としてG1を制した中野栄治師をゲストにお迎えします!
2014.4.24
中野栄治調教師…以下
[中]西塚信人調教助手…以下
[西][西]今回は中野栄治先生をお迎えしてお送りさせていただきます。中野先生、よろしくお願いいたします。
[中]こちらこそよろしくお願いいたします。
[西]僕が初めて競馬を真剣に見たというか、意識して見たレースというと、先生が騎乗されていた
アイネスフウジンの
皐月賞だと記憶しています。
[中]そうなの?
[西]確か僕は10歳とかで、二本柳壮の兄貴とか、先生はご存知でしょうが3番目のお嬢さんである○○ちゃんと遊んでいると
「○○ちゃんのお父さんが乗って走るのよ」と言われて競馬を見たんですよね。そこから競馬に興味を持って見るようになったんです。そういう意味では、同級生のお父さんではありますが、競馬を見たきっかけをつくった人ですので、何か緊張しますね(笑)。
[中]そう改まらないでよね。
[西]先生のお父さんは大井競馬場で、調教師として活躍していらしたんですよね。
[中]元々は、九州大分で騎手だったんですよね。中津、佐賀、荒尾という3場で競馬をしていて、そこで乗っていたんです。
[西]あ、そうだったんですか。
[中]僕が生まれたのは昭和28年なのですが、当時は地方競馬の方が景気が良かったというか、繁栄していたというか、羽振りが良かったんですよね。
[西]昔はいまとシステムが違っていたようですよね。
[中]当時は、九州で乗っていたウチの父親が、中央でも乗ることができたんです。関西にたくさん後輩がいたりもしたんですけど、僕が3歳のときに、父親が中央を辞めて大井競馬場に来たんです。当時は、中央よりも地方という時代でしたから。
[西]昔からの馬主さんのところで昭和30年代、40年代の写真を見せてもらうと、本当に信じられないくらいのお客さんが入っていたりするんですよね。
[中]そうだよ。しかも、騎手と調教師を兼任するとか、調教師と馬主、それこそ騎手、調教師、馬主を兼任することもできたんですよ。
[西]えっ、そうだったんですか。
[中]自分で馬を買って、自分で調教をして、そして自分で競馬に乗っていたんですよ。そして、その馬を馬主さんに買ってもらっていたんです。
[西]時代ですね。
[中]それが、僕が中学校1年生だった昭和40年でした。
「お前は中央にいきなさい」と父親に言われたんです。正直「えっ。何で」と思いましたよね。
[西]いまの時代では、イメージできませんよね。というか、中学校1年生で騎手を目指したんですか。
[中]当時は小学校を卒業したら、弟子入りしたんです。当時、同期が7人いました。
ハイセイコーを最初に乗った辻野君や宮浦君。この宮浦君は、いま関西で活躍している川田(将雅)君のお母さんの兄貴で、そういったメンバーだったんです。みんな地方を目指していた時代に、そこでお前は中央に行きなさい、と言われたんです。
[西]当時のスタージョッキーは誰だったんですか?
[中]当時、佐々木竹見さんが年間550勝をしたんですよ。アメリカのシューメーカーの記録を抜いたと話題になったんですが、もう当時は佐々木竹見さんが憧れでした。
[西]じゃあ、中央で弟子入りしていたんですか。
[中]違うよ。中学校1年生から大井の父親のところで弟子入りしていて、中学校を卒業してから中央に来て、デビューしたんですよ。当時、中央は弟子入りしてから騎手になるまで3年間かかったんですが、地方は1年半でデビューできたんです。
[西]あ、そうだったんですね。
[中]同期の辻野君が当時大井に在籍していた
ハイセイコーの新馬戦に騎乗していたんですよね。8馬身ぶっちぎりで勝ったんですが、その前に1回レース不成立になっているんです。あの馬は強過ぎるって言って、みんなが出走回避してしまったんですよね。
[西]凄いですね。
[中]強かったよ。あの馬が中央に移籍したときには、地方の馬が強いのが嬉しかったことを覚えています。
[西]変な聞き方をしてしまいますが、先生のなかに
「俺は大井の出身だ」というような思いがあったりするんですか?
[中]ありますよね。
[西]いまは内田さんとか戸崎騎手とか、基準をクリアすることで移籍が認められる時代です。先生の頃とはまた違った感じですか。
[中]いまでも覚えているのはデビューして2年目くらいに、みんなに
「中央でデビューできて良かったよな」と声をかけられたんです。
[西]そう言われたということは、JRAと地方が逆転しつつある状況だったということなのでしょうが、それはJRAが伸びたのか、それとも地方競馬が衰退したんですか。
[中]中央が伸びたということでしょう。その後、徐々にグレードレースの導入など、いまのようなシステムの構築に向けて動き始めていくことになりましたからね。でも、ご存知のようにいままだJRAでは行われていないナイター競馬を実施したのは大井が最初ですし、スターティングゲートを導入したのも地方の方が早かったように、地方も頑張っているんですよ。
[西]いまのスターティングゲートって、地方が最初だったんですか。
[中]そうだよ。昔はいまみたいな機材ではなかったんだから。
[西]話は戻ってしまいますが、騎手ということで言えば、そうなるべくしてなる環境だったわけですね。
[中]そうやって育てられました。時代背景もそういう傾向でしたよね。どんな職業でも、自分の家の家業を継ぐのが自然、という雰囲気があったりしました。
[西]JRAへ行くように言われたとき、
「地方に行きたい」ということは、お父さんに言われなかったんですか。
[中]思いとしてはあったけど、口答えできなかったんだよ。いまとは時代が違って、そうやって育てられたんだ。うちは、親父が絶対という、そういう家系だった。
[西]当時はそうだったんでしょうね。
[中]先日は対談のときに、生まれ変わったらどんな職業につきたいですかと聞かれたんだけど、教員なんだよね。小学校の先生が良い。
[西]また、なぜなんですか。
[中]やってみたいんだよね。
[西]もう1回
ダービー、ではないですか(笑)。
[中]学校の先生だね。
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