緻密な計算がもたらしたダービー優勝の栄冠
2014.6.26
中野栄治調教師…以下
[中]西塚信人調教助手…以下
[西][西]話を戻しますが、競馬が同じというのも時代の流れなのでしょうか。
[中]そうなのかもしれません。でも、僕自身で言えば、負けたならば次はないと、いつもそういう思いで乗っていました。僕の師匠は乗り方についてひと言も言われたことがありません。だからこそ、次はないと思って、必ず結果を出そう、そのためにはどうした方が良いのかと頭を使って必死に考えました。
[西]でも、いまはマネージャーがいて、馬の予定が決まっているというのが普通の時代ですからね。あとは、昔は徒弟制度があったからのでしょうか、厩舎と騎手の方々の系統みたいなものがありましたが、いまはないですよね。
[中]師弟関係がないに等しい時代なので、それはそれでいまの時代の流れがあって、それ自体は良いと思います。ただ、だからと言って次はない、何とかひとつでも上の着順に持ってくるぞ、と考えなくて良いということではないですよね。強い馬を相手にペースに合わせて淡々とした競馬をしていて、それで「考えている」と言われても、それは違います。
[西]中野先生は、騎手の方々にあまり指示を出しているイメージがないんですが。
[中]言いませんよ。基本的には、乗り方は騎手に任せるべきだと考えます。ただ、そのくらい考えているというのが大前提ですよ。僕が考えているくらいのことは考えていて当然で、それがプロですし、それが騎手ですよ。
[西]細かく指示したり、叱ったりしている先生もいますよね。
[中]競馬に乗ったことがわからない部分があります。わからないから怒りもするし、批判もするのでしょう。でも、そうは言っても実際はそうじゃないんだ、ということがたくさんありますからね。ただ、調教師としては言いたくなる気持ちもわかりますよ。その理由のひとつに、癖などを自分たちの方が知っているという部分があると思います。昔は騎手自身が攻め馬に乗って、その馬を知っていましたが、いまはパドックで跨がるのは最初というのがほとんどと言われます。そんな中で、やはり言いたくなる気持ちはわかりますけどね。
[西]負けるといえば、
アイネスフウジンは
皐月賞で2着に負けています。
[中]あれは僕が上手だったから負けてしまったんです(苦笑)。
[西]上手だったから負けたというのはどういうことですか? 当時の印象しかないのですが、逃げて、
ハクタイセイに差されて負けたというものなのですけど。
[中]あのレースは、ゲートが開いて
ホワイトストーンが右にヨレて、
アイネスフウジンの前に出てぶつかった結果、蛯沢さん(
フタバアサカゼ騎乗)が逃げたんですけど、あそこで僕が下手だったら引っ掛かって、1コーナーでハナを切っているんですよ。そのまま行けば引っ掛かりながら、勝っていたはずです。でも、上手く馬を落ち着かせてしまいました。スローペースの2番手で折り合わせてしまったんです。案の定、スローペースでみんなが楽だから、ゴール前で差されてしまいましたよね。
[西]そういうことだったんですね。
[中]3コーナーでも折り合ってしまっていたんです。あそこで引っ掛かっていれば、そこから動いて行って勝っていましたよ。あそこで、蛯沢さんは
「栄治、早いよ」と言っていましたけど、遅いですよね(苦笑)。4コーナー手前では、
「内側だけは空けないでください」と言って、堪らずに動いていきました。
[西]ははは。
[中]それでもやはりライバルたちが楽だった分、ゴール前で差されてしまいました。
[西]先生が上手だった分、折り合ってしまったために、ペースが落ち着いてしまい、ライバルたちに余力が残る形となったということですね。深いですね。
[中]上手かったというよりは、僕自身のあたりが柔らかいので、馬が落ち着いてしまったんです。正直、皐月賞は勝てると思っていました。競馬に絶対はありませんが、ウチの家内に
「絶対勝つから」と競馬場に呼んでいたんです(苦笑)。絶対はなかったんですが、でも普通ならば負けないという自信はありました。
[西]そうだったんですか。
弥生賞でも敗戦していましたね。
[中]弥生賞は馬場が悪かったため、かなり外を通りました。結局2馬身差で負けてしまったんですが、言い方は変ですが納得の負けでした。加藤先生にも、馬のために馬場の良い外を回りたいと言いました。
[西]少し話がそれますが、
ダービーでは
メジロライアンに(横山)ノリさん、そして
ハクタイセイには(武)豊さんが騎乗していました。当時、お二人ともデビューして間もない若手だったわけですが、どのように見ていらっしゃったんですか?
[中]勝ち星も重ねていましたし、もちろん上手だと思いましたよ。でも、経験が違います。いざというときの対応では負けないと思いましたし、技術がものをいう馬へのあたりの柔らかさは誰にも負けないという自負がありましたよ。
[西]先生の乗り方は美しい、と評価を受けていますが、いま見ると外国人っぽさを感じます。
[中]デビューした当時から、馬へのあたりの柔らかさには自信がありました。でも、当時は批判されたんですよ。
[西]あ、そうなんですか。いまはみんなそんな感じですし、それが主流ですよね。
[中]でも、当時は違ったんですよ。ただ、野平祐二先生は、ウチに
「和製サンマルタンいますか」って電話してきたんです(笑)。僕自身はイギリスのピゴットに憧れていました。
[西]野平先生は評価していたんですね。サンマルタンに乗り方が似ているということなのでしょう。当時、外国人の乗り方を見る機会があったんですか?
[中]もちろんないですよ。乗り方は小さい頃から父親の姿を見ていただけです。中学校に入ってからは実際に教えられました。
[西]中学校から馬に乗っていたんですよね。
[中]いまでもそうだけど、地方競馬では朝2時から調教をしています。学校に行く前に12、3頭に乗っていました。しかも、競馬学校のように引退した馬たちではなく、現役の競走馬ですからね。だから、負けないという自信がありました。
[西]話を戻しますが、
ダービーの時の実況で覚えているのが、
「先頭の中野栄治は馬場の良いところを、馬場の良いところを選んで」というフレーズなんですよ。
[中]見てもらえばわかる通りなのですが、土曜日に
ローゼンリッターという矢野(照正)先生のところの馬で、2400mに乗っていました(メイS)。その時に、どこを通るかということはすべて確かめていたんです。1600m地点から3コーナーまでどれほど外を回っているか、見ることができれば見ていただきたいですね。Aコース、Bコースとあって、内側が悪かったので、それだけ外を選んだんです。
[西]そうだったんですね。
[中]豊くんや郷原さん(カムイフジ)といったライバルの馬たちが、その内を通らざるをえなくなっている状況をみて、内心はしめたと思いました。
[西]そういう緻密さがあったんですね。
[中]あと、
アイネスフウジンは(ゲートを)出すと引っ掛かってしまうので、キャンターではなく、ゲートに歩いて向かいたかったんです。そこで
ローゼンリッターのときに、3コーナーにあった待避所の時計で8分前にゲートに向かって歩き始めてみました。すると、ゲートを通り越してしまう感じになってしまい、早いと思ったので、当日は7分前に出たんです。みんなはまだ待避所にいましたが、そこから1頭で出ると、ちょうどピッタリでした。
[西]そこまで計算していたんですね。
[中]実は、
ダービーに向けては、勝負服も、風の抵抗を軽減させようと自費で穴を空けてつくりました。あとは食いしばりますので、歯の治療もしましたし、考えつく、ありとあらゆる準備をして挑みました。
[西]そうか、勝負服は当時はエアロフォームがなかったんですね。それより穴を開けた勝負服を見てみたいですねえ。
[中]いまでも家にあるよ。
[西]あ、見せてください!
[中]良いですよ。来てください。
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