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【対談・小久保一徳氏①】今回はローレルクラブ・小久保氏をゲストにお迎えしました!
2018.5.9
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ローレルクラブ・小久保一徳氏…以下[小]
西塚信人調教助手…以下[西]

[西]今回は、一口馬主クラブとして知られるローレルクラブの小久保一徳さんとの対談をお送りしたいと思います。何かとバタバタしていたもので、対談は年明けの田辺以来となります。読者の皆さんには、大変お待たせをしてしまいました。ということで、よろしくお願いいたします。

[小]こちらこそ、よろしくお願いいたします。



[西]何を隠そう、小久保さんは僕が高校生のときから知っている方なんですよ。

[小]お兄ちゃんも高校生でしたね。ずいぶん長いですね。

[西]今年38歳ですから、もう20年以上の時間が流れているんですよ。凄いわ(笑)。

[小]ロイヤルパークホテルでお会いしたのが最初でしたよね。

[西]カネツクロス(※1)の勝ち祝いで、ふぐをご馳走になったんですよ。いまでも覚えています。

(※1)タマモクロス産駒。西塚厩舎と堀井厩舎が管理して、96年AJC杯をはじめ重賞を3勝した。

[小]AJC杯を勝ったあとに、当時のカネツ商事の社長が『一度みんなで食事の席を』ということで、先生と家族、あとは的場さん(的場均現調教師)も出席していただいたんですよ。

[西]でも、そこからやがてミンナノアイドル(※2)まで話が繋がっていくんですから、感慨深いものがあります。

(※2)オグリキャップ産駒。ローレルクラブの募集で、西塚助手が現在所属する尾関厩舎が管理した。

[小]いや、本当ですよ。“この世界は縁”とよく言われますけど、縁があって繋がりがあるわけですからね。

[西]僕がトレセンに入った当時に、西塚厩舎の管理で、ということでミンナノアイドルのお話をいただいたんです。その後父が亡くなって、そのまま一緒に尾関厩舎へ、ということになりました。もし西塚厩舎で走っていたとしても、取り上げられ方としては同じだったはずですから。そう考えると、20年以上にわたる人間関係があったからこそ、という話ですよね。これは実にローレルクラブらしいな、と、僕自身は勝手に思っているんです(笑)。

[小]実際、クラブとしては先生が亡くなられてしまったので、どうしようかということになりました。ただ、西塚さんとのご縁もありましたので、まずは西塚さん自身がどこの厩舎に所属するか、行き先を決めてもらいたいと。そして尾関先生のところに決まり、先生にお願いしたところ、快く引き受けてくださることとなったんです。結局、ダービーの日に1回出走しただけとなってしまったんですけどね。

[西]いまでも鮮明に覚えています。僕自身は寝ないで競馬場に向かいました。日曜日の1レースで、攻め馬が忙しくて、馬から車に飛び乗って、超特急で向かったんですよ。そうしないと、1レースは間に合いませんから。そうして間に合って、パドックを引いたことを覚えています。その子供が走ってくれましたよね。

[小]斎藤誠先生のところでお世話になったストリートキャップが頑張ってくれました。残念ながら1ヶ月程前に、故障に見舞われてしまい、引退することとなって、今は岡山の方で角居先生が立ち上げられたリトレーニング施設に引き取られました。

[西]ストリートキャップの兄弟は、いまのところいないんですか?

[小]お兄ちゃんと同じで、斎藤誠先生にお世話になる全弟が1歳にいます。

[西]あれ、去年僕が牧場にお邪魔したときに見せていただいた馬がいたんですよね。

[小]それがその1歳馬でしょう。今年はモーリスの仔が生まれる予定だと聞いています。

[西]モーリスですか。楽しみですね。父が最後の夏、それこそ最後の牧場視察でしたが、一緒に北海道の牧場を回っていて、たまたま時間が余ってカネツクロスに会ってきたんです。調教師の方々が育成牧場や生産牧場に行くのは、入厩を待つ2歳や1歳、あるいは当歳馬を見に、仕事として行くのがほとんどです。北海道に毎月のように行っていても、手掛けた馬に会うためだけに訪れることはなかなかないと思います。

[小]カネツクロスも昨年亡くなりました。

[西]父も、手掛けた引退馬を積極的に見にいくことはありませんでした。それがあの時は、『行ってみようか』と言ったんですよね。でも、僕自身思うのは、調教師と、僕たち実際に馬を扱う調教助手や厩務員さんとは、馬に対する見方というか感覚が違って、調教師の方がドライなところがあります。

[小]確かに、そういうところはあるように思います。

[西]僕自身も、そうあって良いと思っているんです。まあ、そこは置いておいて、あのときカネツクロスをニコニコしながら見ていた父の表情は、調教師ではなくてホースマンというか。少なくとも、自分が知っている父の表情とは違っていたんです。たぶん、初めて見た表情でした。以前にもこのコーナーでお話をしたことがありましたが、カネツクロスは特別な馬だったんだろうなぁ、と思います。

[小]今でも馬のぬいぐるみは人気がありますけど、ファンの方々からリクエストがあるということで、カネツクロスも製品化のお話をいただいたんです。当時G1を勝っていないのにぬいぐるみになったのは、確かカネツクロスシグナスヒーロー(※3)の2頭だったとお伺いしました。

(※3)イナリワン産駒。田中清厩舎所属で、96~99年にかけて重賞2着を5回記録した。

[西]タマモクロスって馬産地で人気があったと聞いたんですけど、実際どうだったんですか?

[小]派手さはなかったかもしれませんけど、人気があったという話は聞きましたよ。

[西]カネツクロスラッキーソブリンの肌にタマモクロス。時代ですね(笑)。

[小]そうですね。本当に懐かしい。

[西]たまに的場先生と運動とかで一緒になったりするんですけど、そこで(95年)大原Sがポイントだったという話を聞いたことがあります。あのときは、(横山)ノリさんが乗っていて、引っ掛かって逃げる形になったんですよね。

[小]そうでしたね。あのときは毎日王冠から秋の天皇賞というローテーションを予定していました。ところが、ナリタブライアンの調子があまり良くないと伝えられていて、当初予想していた以上に天皇賞にエントリーする馬が増えてしまって、除外になってしまったんです。

[西]毎日王冠(10着)を叩いて、本番と思っていたのに、賞金で除外対象になってしまったんですよね。

[小]19番目とか20番目だったと記憶しています。当時はその次週に菊花賞があって、その日にオープン特別の大原Sが組まれていたので、そこを目指すことになりました。天皇賞にかなりの確率で出走できると思って、的場さんも菊花賞の週は東京で騎乗馬が決まっていたんですよ。そこで先生から『ここでは勝ち負けなので、ノリでお願いします』というお話があって、向正面から引っ掛かってハナを切る形になりながらも、そのまま押し切って勝ってくれたんです。

[西]競馬自体は強かったですし、カネツクロスが凄いことも良くわかったんですけど、その1回の競馬が大きかったということなんでしょうね。

[小]そこまでは好位での競馬をさせていました。もちろん、ペースもあったでしょうし、展開もあったのでしょうけど。そして次のレースの鳴尾記念も、引っ掛かりながらハナに立つ形になったんです。

[西]あのレースも普通ならば、終い止まってバタバタになっていても不思議ではありませんでしたよね。

[小]よく凌ぎ切ってくれた、というレースでした。

[西]あそこからAJC杯に行って勝つんですけど、いまにして思えば、ちょっとしたサイレンススズカと言われそうなレースぶりでしたよ。

[小]本当に強いと思いましたよね。上がり33秒9というのは、あの当時は凄かった。

[西]2200mで上がりが33秒台で、ダンスパートナーを封じ込めてしまったんですからね。今ならまだしも、当時はサンデーサイレンス産駒がデビューしたばかりの時代で、タマモクロス産駒がそれだけの脚を使ったのは凄いと思います。

(※次回へ続く)

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