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西塚助手

【対談・小島勝三調教助手①】今回のゲストは小島太元調教師を父に持つ、小島勝三調教助手です!


小島勝三調教助手…以下[小]
西塚信人調教助手…以下[西]

[西]今回は父である小島太厩舎で長く調教助手を務め、そして今年の3月からは和田勇介厩舎で活躍されている小島勝三さんをお迎えいたしました。よろしくお願いいたします。

[小]こちらこそ、よろしくお願いいたします。



[西]いきなりですけど僕、勝三さんのことは子供の頃から知っていたんですよ。

[小]僕も知っていましたよ。

[西]昔、調教師会が主催していた忘年会や新年会というのがあって、家族も参加していたんです。そのときに平井先生(平井雄二元調教師)の息子さんとかと、勝三さんたちがよく話をされていたのを覚えています。

[小]お互い、いくつ違うんですか?

[西]たぶん4歳くらい違うはずです。僕は昭和54年生まれですから。

[小]じゃあ4歳違いですね。3歳違いだと学校で一緒になったりすることがあるけど、それより離れると確かに遠い感じがあるかもしれません。

[西](美浦村立)大谷小学校に行ってました?

[小]行ってましたよ。

[西]良太さん(勝三氏の兄)はさらに何歳上ですか?

[小]さらに4歳上です。

[西]ちなみに、勝三さんは騎手試験を受験されたんですか?

[小]受験していました。僕としては騎手になりたかったんです。だから、不合格になったことはその後にとても大きく影響しました。

[西]中学3年生のときですか。

[小]そうです。騎手になれないのならば、馬の世界にいても意味がないという心理状態になりました。目が悪くて、レーシック治療を受けることも考えたりしたんです。ただ、当時は施術例がほとんどなくて、そういう部分も含めて父から『無理して騎手にならなくても良いんだぞ』と言われて、自分のなかで糸が切れてしまった感じでした。

[西]父親が騎手という環境というのは、なかなかありませんよね。騎手になるのが自然というか、目指すようになるのはある意味自然だったりするんでしょうね。

[小]物心ついたときから、騎手になるものだと思っていましたし、ならなければいけないという気持ちでした。それが不合格になって、ならばもう一度ということも考えていたところで、父親から言われたひと言だったので。もうやらなくていいとなると、一気に気持ちがなくなってしまったんですよね。

[西]その後、普通に高校に入ったんですか?

[小]高校に進学しました。いろいろな友達ができて、楽しい高校生活を送りました。

[西]卒業してすぐに競馬の世界に入ったんですか?

[小]いや、音楽イベント系の専門学校に進みました。そこではコンサートの準備や裏方のアルバイトに夢中でした。スタッフ側ですから、言ってみればただでコンサートを聴けるわけですよ。もう楽しくて、楽しくて、2年間夢中でした。

[西]でも、そこから競馬の世界に入っていくわけですよね。

[小]騎手を諦めて、高校に入って『馬の世界はもういいや』と思っていました。でも、外の世界に行って、アルバイト先で知り合う方々とか、あるいは全く関係ないところで知り合った人たちの中にも、競馬好きの人がいたんです。そういう人たちと話をしているうちに、競馬というのは凄いんだということに気づかされたんです。自分にとっては、物心ついたときから傍にあったのが競馬で、土日にやっているのが当たり前という環境でしたからね。それと、ちょうどそのタイミングで兄貴(良太氏)が競馬場に入って、当時まだ珍しかった持ち乗り厩務員になって、注目されていたんです。

[西]確か、良太さんが第1号くらいの感じで、そのタイミングでサクラローレルも走っていたんじゃないですか?

[小]そうです。サクラローレルが活躍していて、兄貴の姿に格好良いと思いました。騎手ではなくても、こういう形もあるんだと思うようになって、そこで親に『牧場に行かせてください』と話をしたんです。

[西]良太さんには相談とかしなかったんですか?

[小]最初に相談しましたよ。それで親に話をしてみたら?とアドバイスを受けました。

[西]その当時、太先生は、もう騎手を引退されていましたよね。

[小]技術調教師だったはずです。

[西]牧場はどこに行ったんですか?

[小](サクラローレルなどを生産した)谷岡牧場です。父には、まずは北海道の厳しい寒さの中で1年を通して頑張ることができるかどうかだ、と言われました。1年頑張ることができたら、そこからスタートだぞ、ということでした。我慢できないようならば、とてもこの世界は務まらないということを言われたのを覚えています。結果として、そこで越冬できたんです。

[西]北海道にはどのくらいいたんですか?

[小]1年とちょっとですかね。そこから美浦のサーストン牧場に移って、働きました。

[西]うわっ、僕の先輩ですよ。

[小]えっ、サーストンにいたの?

[西]最初は西山牧場の白井分場にお世話になりまして、トレセンに入る前はサーストンにいたんです。勝三さんもいたのは知りませんでした。

[小]当時、父親の厩舎の馬もいましたし、それこそ西塚先生のところの馬もいたはずですよ。

[西]いたはずです。話が戻りますけど、谷岡牧場に行ったときの段階で馬には乗っていたんですか?

[小]ほとんどない、と言っていいくらい乗っていませんでした。

[西]僕も大学院を中退してこの世界に入ったんですけど、そのときはほとんど馬に乗ったことがありませんでした。しばらくの間は、練習馬しか乗せてもらえなかったんですよ。

[小]俺もそうだったよ。でも、その練習馬に乗るのが毎日楽しくて、楽しくて。

[西]僕たちはみんな馬に持っていかれるから、馬が仕上がってしまって。勢いが良くなってしまっていました(笑)。

[小]なるほどね(笑)。

[西]でも、まさか"パイセン"だとは思いませんでしたよ。

[小]西塚先生のところは男の子2人、ということは分かっていましたから。もっと年齢が近いだろうな、という感じだったんです。

[西]あの当時、新年会と忘年会に調教師のお坊ちゃま、お嬢ちゃまたちが揃っていたんですよね。でも、良太さんにはそういうイメージがあまりないんです。

[小]年齢が離れているからでしょう。そういえば、トレセンに入ったときは何厩舎に所属したの?

[西]テンから西塚厩舎です。

[小]あっ、そうだったんだ。それで西塚先生が亡くなられて、尾関厩舎になったということ?

[西]そうです。僕自身は、勝三さんがうらやましいというか、輝いて見えていましたよ。

[小]どうして?

[西]あの当時はお祖父さん(境勝太郎元調教師)の厩舎でしたけど、管理馬が大活躍していて、ウチよりももっとお坊ちゃまというか、上流階級だなあ、という感じがあったんですよ。

[小]子供でもそういう感覚ってあるのかなぁ?

[西]僕自身はありましたね。あの頃の境勝太郎厩舎といえば、もう無敵みたいな感覚でしたよ。

[小]活躍馬がたくさんいたので、そういう感じはあったかもしれません。でも、(祖父とは)一緒に仕事をしたことがないんですよ。

[西]あ、勝三さんは勝太郎先生と一緒には仕事していないんですか。

[小]兄貴は働いたことがあるし、父の厩舎にそのまま移籍した厩務員さんたちが何人もいたんですけど、話を聞くだけで凄いと思いました。時代が違うと言えばそれまでですけど、定年の前年に重賞を9勝するというのはあり得ないです。有馬記念を勝って引退の花道、というような状況は、今はほとんど無理だと思います。

[西]今の時代ではあり得ないでしょうね。

[小]伝説的な話ばかりで、少し話を盛っているのかもしれませんけど(笑)、たとえそうだったとしても、成績は残っているわけで、凄かったんだとは思います。

(※次回へ続く)

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