西塚助手
志半ばで亡くなられた、高市師の足跡を振り返って
報道やJRAからの発表でご存じの方もいらっしゃると思いますが、先月17日、高市圭二先生が64歳という若さで亡くなられました。
僕自身も、先生が入退院を繰り返しながら、闘病生活をされていたことは知っていました。ただ、体調を悪くされてからでも競馬場の喫煙室で一緒になると、高市厩舎の出走馬のレースについてとか、いろいろな話をしていたんですよ。
元々、高市厩舎所属でデビューした北斗(宮崎騎手)が、西塚厩舎の攻め馬を手伝ってくれていたんですよね。そういうきっかけで、僕も先生からよく声をかけていただきました。ですから、先生を近づきづらいという人もいたようですが、僕自身はまったくそういう感覚はなくて、温かい方だと思いました。ただ、それを表現することがあまり得意でないというか、不器用なタイプではあったのかもしれません。
先生は、活躍馬を出すのも早かったですよね。管理馬の初出走が96年12月で、それから1年と少し後、98年1月にマンダリンスターで重賞初制覇(京成杯)、00年にはファストフレンドで帝王賞と東京大賞典を勝っています。99~01年にダート短距離重賞を勝ちまくったビーマイナカヤマもいました。
ですから僕自身のイメージとしては、同世代の国枝先生よりも先に、高市厩舎から活躍馬が多く出ていたような印象があります。
先生は、体調が悪くなっていると聞いてからも、しばらくの間は自ら馬に乗られていた記憶があります。とにかく馬の特徴や調子を把握して調整する、職人気質な方でした。
うちの父からも、その調教方法について“見るべきところがある"というような話を聞いたことがあります。僕自身も調教で一緒になることがありましたが、角馬場やコースなどでの動きを見ていると、馬本位というか、それぞれの馬に合わせてメニューを組む、という感じですね。
結果的に、シングンマイケルで制した昨年の中山大障害が、最初で最後のJRA・G1制覇になりましたが、これも先生のスタイルを貫き通した結果じゃないかと。馬の特徴を見抜いて、それを伸ばしていったからこそ、平地未勝利の馬を障害に転向させて、成功させることができたと思うんです。
そういう姿勢は、調教師を目指す1人として、厩舎で働く1人として、改めて自分に置き換えるとどうなのか、考えさせられます。
また、先生は騎手選びも独特でした。特に若手騎手を中心に、ということなのかもしれませんが、いろいろな騎手を乗せていたように思います。どんな騎手も、一度は高市厩舎の馬に乗っているんじゃないかと思えるくらいです。
現代の調教師は、企業の社長だったり、あるいは営業マンだったり、そういう要素が求められている時代と言われています。ただ、人を育てるという部分で言えば、昔の調教師の方が優れていたんじゃないかと思うんです。高市先生自身が騎手出身ということもあるのでしょうけど、古き良き時代の調教師を体現する存在だったのではないか、と思うんですよ。
父も志半ばでこの世を去りましたが、高市先生もシングンマイケルの活躍をもう少し見たかったでしょう。その思いに報いるために、シングンマイケルも光希(金子騎手)とともに頑張ってくれると思います。
改めて、ご冥福をお祈りいたします。
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